命の恩人を日本軍に殺され 米軍上陸時、接した住民をスパイ視 久米島<あの日 生かされて>1(前編)

 「米軍上陸!」。当時15歳の内間好子さん(92)=久米島町=は知らせを聞き、幼いきょうだいをおぶって必死に逃げた。うっそうと木が生い茂る山の奥へ―。日本軍と米軍の交戦の音が聞こえた。「大変だよー! アメリカーがちょーんどー!(来たぞ)」。集落の人が叫んだ。ガクガクと体が震えた。その時、大きな声がした。「アメリカーは何もしないから心配しないでよー!」。仲村渠明勇(めいゆう)さん(当時25歳)の呼び掛けだった。

 1945年6月26日、久米島の日本海軍通信隊(鹿山隊)30人余りに対し、米軍は約1千人で上陸した。米軍の捕虜になっていた島出身の仲村渠さんは米軍を先導。山に避難した住民に家に帰るよう説得して回った。仲村渠さんは山の奥の「ウチゲンナー」と呼ばれた場所で、親戚だった内間さんの母親に気付いて笑顔で近づいた。「おばさん、元気だったね?」「安心して家に帰って」。そう言って手を握り、涙をこぼした。内間さんらは、米軍が住民に危害を加えないと知り、集落の人たちとそれぞれ家に戻った。

 一命は取り留めたものの、内間さんの恐怖は終わらなかった。日本軍は米軍と接した住民をスパイ視し、次々に殺害。仲村渠さんも殺された。「まさか」。住民の中には日本軍に告げ口する人もいた。夜も眠れず、おびえた。

 住民20人を殺害した鹿山隊が投降したのは9月7日。戦後、実際に内間さん一家は日本軍の殺害リストに載っていたと人づてに聞いた。「仲村渠さんが『何でもないから下りて』と言ったから助かりました。でも親戚の仲村渠さんと話したということで『スパイ』と告げ口された。もっと戦争が長引いたら殺されていた。終わってほっとした」

 鹿山正元隊長は戦後、住民虐殺を「軍人として当然の処罰だった」と正当化した。人命を軽視し、戦争遂行の道具にした軍国主義。内間さんは住民虐殺を、その思想を強いた戦争指導者らの責任だとみる。「兵隊たちも命令に従わないと殺されるからかわいそうだった。沖縄を捨て石にして、戦争を始めた大臣たちが憎い」。

 (中村万里子)米軍を説得し住民を守った男性の殺害、目撃者らが証言 軍国主義の歴史、繰り返さない 久米島<あの日 生かされて>1(後編)
 沖縄戦では、住民は軍との「共生共死」を強いられた。追い詰められた住民の生死を分けた背景に何があったのか。それぞれの分岐点を探る。
 

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