頭のてっぺんから桜の木が… なんともケッタイな「あたま山」

人生は不条理だという。まず思い通りにいかない。いや、それ以上におかしいやないかと思わせられることも多い。家が金持ちか貧乏か。親が美形かどうか。氏素性によって学歴やその後の人生に差が生まれる。学校では物事は合理的に考えよ、と教えられる。が、社会に出ると納得出来んことの方が多い。その反映か、落語にはケッタイな噺も多い。ちょっと強引かな。

一番だと思うのが「あたま山」。ケチな男が花見に行くが、ケチだから飲まず食わずで、落ちているサクランボばっかり食べて帰ってきた。ここ、ちょっと変。桜の花が咲く頃、サクランボはまだやろ、てな詮索はちょっと置いて、数日後、男の頭のてっぺんから桜の芽が顔を出す。どんどん大きくなって、桜の木は見事な花を咲かせた。すると連日連夜、花見の人がやって来てドンチャン騒ぎ。あまりのうるささに耐えかねて、男は木を引っこ抜いてしまう。と、その穴に夕立の水がたまり池になった。すると、池にボウフラがわく、フナがわく、鯉がわく。舟遊びの人がやって来る。釣り人がやって来る。男は、あんまりうるさいので、頭の池に身を投げてしまった。

まあ、ケッタイというか、シュールというか。

小さな頃、伊賀上野の母方の祖父に、芭蕉ゆかりの蓑虫庵に連れて行かれた。草深い粗末な家。伊賀上野は芭蕉の生まれ里。扁額があって、「蓑虫の音を聞きに来よ 草の庵」。どういうこと? 蓑虫って鳴かんやろ。大きくなってピカソやダリと出会い、世の中には自分の脳では消化しきれない、芸術というものが存在すると知った。

「あたま山」は、その後に出会った最大の?。他にも何というか、オチが哲学的な噺がある。「粗忽長屋」。八つぁんが浅草の観音様にお参りし、雷門に出てくると、行き倒れに黒山の人だかり。「あ、熊の野郎だ。今朝も寄った時にぼんやりしてやがったが、ここで行き倒れになってるのに気が付かねえんだ」。この人は昨日からここに倒れているんだと言われても「いえ、とにかくここへ本人を連れて来て、死骸を引き取らせますから……」と、八つぁんは死んだ心持ちがしねえとぐずる熊さんを無理やり引っ張ってくる。死骸に対面した熊さん、抱き上げて眺めていたが、「分からないことがあるんだ」「なにが?」「この死人は俺にちげえねえが、抱いてる俺は、いったい誰?」

勘違いと言っては身もふたもない。人間存在の根元を問いかけてるは、言い過ぎか。しかし何とも言えないおかしさ、摩訶不思議さ。アハハハと笑った後の、ザラッとした肌合い。

作った人の頭の中を覗きたい。現代なら、アニメやSF小説等々何でもありだが、江戸時代はどうだったのか。そういやあ、北斎の富岳百景、写楽の大首絵。奇想の画家といわれた伊藤若冲。江戸時代の絵や工芸品のデザインには目を見張る。工芸品のレベルは江戸時代が頂点ともいう。ケッタイと言えば、水木しげるを待たなくても平安時代から「百鬼夜行」は有名だし、黄表紙なども不思議な話が多い。なんで、こんなケッタイな噺があるのか。たわいないアホゲな噺の中にあって? や! を入れたかったのか。すると、時計がぐにゃりと曲がっているのを初めて見た時の? や! が懐かしく思い出された。(落語作家 さとう裕)

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