初代三笑亭歌楽 草創期の落語創作力の爆発力

落語家の名前は時に粋であったり、くすりと笑えたり。名前だけでいえば、私の好みは三笑亭可楽。山椒は小粒でヒリリと辛いを洒落たもので、何とも小粋。五街道雲助なんて凄いのもある。柳家つばめも洒落てる。柳家権太楼(ごんたろう)は、いかにもやんちゃそうだ。朝寝坊むらく、なんてずぼらでのんきだ。有名な三遊亭圓生も初代の最初の名乗りは「山遊亭猿松」。昔々亭桃太郎(せきせきていももたろう)は、子どもが喜びそう。先代桃太郎は、柳家金語楼の実弟で、私も若い頃、東京の寄席で聞いた。「桃太郎さんですよ」としゃべりだしたのが印象的で、いかにも好々爺然とした話しっぷりだった。

八代目三笑亭可楽

さて、今回は初代三笑亭可楽のお話。江戸落語の祖、鹿野武左衛門が奇禍にあって、その後約百年、江戸で噺家は途絶えてしまう。文化文政の世になって烏亭焉馬が出て、江戸の落語が再生する。その頃が、実質的な江戸落語の草創期。現代に伝わる名跡が多く生まれたのもこの時代。櫛職人の又五郎、山生亭花楽と名乗り、寛政10(1798)年、下谷柳の稲荷で「風流浮世おとし噺の会」を始めた。が、素人の悲しさ、持ちネタが5日で無くなり、職人に逆戻り。落語を地で行くような大失敗。ところが、又五郎、落語家への思い断ち難く、同年9月、目黒不動尊に参詣し、櫛作りの道具を売り払って再出発。その後、三笑亭可楽と名乗りを改め、人気者になっていく。

実は、最初の失敗は自作以外のネタを高座に掛けまい、と気負ったためにネタ切れしたもの。再起後は奮起して三題噺を発案、工夫して人気を博した。三題噺とは、あらかじめ客から三つのお題をもらっておいて、その日の最後の出番か翌日の高座で、一つの噺にまとめてかけるというもの。即席で落語を作るだけになかなか大変。可楽が最初にもらった題は、弁慶、辻君、狐だったという。この三題噺、後世、幕末に一時大流行。あの三遊亭圓朝も多くの名作を残しているのはご存知の通り。

また、可楽は謎かけも得意だったと伝わるが、さらに、長さ一分(いちぶ・約3㍉)の線香が灰になる間に落とし咄を即席に作る「一分線香即席咄」を発案したという。これはいわゆる小咄で、有名な「向こうの空き地に囲いが出出来たね」「へい(塀)」という、あれだ。昔の小咄を今聞いてもあまり面白くないが、可楽作の小咄を紹介すると、「富士山は半四郎(五世岩井半四郎・歌舞伎役者)じゃ」「そりゃまた、なぜ?」「日本一のおやま(女形)じゃ」。

満足な古典落語が少なかった草創期の落語創作力の爆発力というか、凄まじさを延広真治氏が、その著作で紹介している。喜久亭寿暁という可楽の孫弟子の『滑稽集』という著作が残されており、それは彼自身の持ちネタの心覚え。そこには文化4、5、6年(1807~9)、3カ年の記録が演目のみだが残されており、文化4年とそれまでのネタは約600話もある。文化5年の新作は約100話。その中には現在も演じられる古典落語が相当数みられる。ただ、作者は誰なのか、ほとんど分からない。が、こういう先達のびっくりするような努力が、今日の落語へと続く原動力になったのは間違いない。まさに芸術は爆発だ!(落語作家 さとう裕)

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