記者に初めて明かした男性の戦後 そのいきさつは…「あれは77年前のわたし」【動画】

© 株式会社中国放送

原爆投下から2か月後に撮影されたフィルム。日本映画社が撮影した広島の姿です。

RCC

中国放送(RCC)は、被爆50年をはさんで3年間にわたって、このフィルムに映し出された人たちの行方を探していました。

RCC

フィルムに記録された被爆者たちの中に、カメラを見つめる子どもがいました。この子たちは、このあと、どんな人生を歩んだのか。

RCC

RCCは放送を通して呼びかけました。しかし、反応はありませんでした。

調査から27年…。ことし、再放送した番組を見た方からRCCに連絡が入りました。

「こんにちは。このたびはお世話になりまして。…生きとりました、生きとりました」

RCC

映像の中で、「おんぶされていた子ども」=竹本 秀雄さんです。

撮影された当時は3歳でした。竹本さんは26年前の切り抜きを大事に持っていました。

竹本秀雄さん
「これは捨てられませんね…」

RCC

RCCが制作したドキュメンタリー番組の広告でした。

RCC

― ご本人でまちがいないですか?
「まちがいありません。表情がねえ。あのかわいい目はどこに行ったんじゃろうか。77年間、いろんなものを見てきましたからね」

竹本さんは左のほほに深い傷を負い、包帯を巻いていました。

RCC

「ほほが裂けて。この傷なんですけど、中の骨が見えていました。もっと盛り上がっていたんですよ、ケロイドで。19歳のときに外科で削ってもらった。いまだにジキッジキッという音を覚えています」

RCC

竹本さんは7歳のとき、父親の仕事の都合で北九州に引っ越しました。

竹本秀雄さん
「小学校のときに『ピカドン、ピカドン』と言われました。言われたんですよ。ピカドンって」

RCC

竹本さんは、自分が映った古いフィルムを持っていました。義理の兄が偶然観た映画の中で、弟たちの姿を見つけたそうです。

竹本秀雄さん
「終わった後に映写室に入って説明して、これ(フィルム)をもらってきたと。今、思えば、なかなかもらえるものじゃないと思います」

おんぶをしていた少年は兄の定男さんです。当時は11歳でした。2人は爆心地から1キロの大手町4丁目の自宅で被爆しました。竹本さんは建物の下敷きになりました。

RCC

竹本秀雄さん
「これを兄が見つけてくれて。秀雄がここにおると。兄が見つけてくれなかったら、後は焼けましたからね。ここにいなかったと思います」

竹本さんはフィルムから引き伸ばした写真を仏壇の上に供えています。

竹本秀雄さん
「あんちゃん、ありがとうね」

「兄としたら、1つもよかったことはなかったと思います」

兄の定男さんは24歳のとき、交通事故で亡くなりました。

竹本秀雄さん
「原爆の話なんてしたことがないです。お前を助けたぞという話も聞いたこともないですし、わたしも小さいですから。今なら聞きたいですけど」

RCC

中学を卒業後、理髪店で修行を積んだ竹本さんは、呉市に移り、26歳で理髪店を開業しました。

映像の少年が自分であることをごく親しい人に話したことはありましたが、ほかの人に伝えることは許しませんでした。

妻 竹本万喜江さん
「『いや、ええ。ほっといてくれ』という感じで、今まで友だちも手が出せない。自分からも言わない」

友人 北川純彦さん
「どっかに言おうかと言ったら、『いや、言わんでもええ』って」

RCC

なぜ、竹本さんは、苦しい戦後の思いを語ることを決意したのでしょうか…。

竹本さんの気持ちに変化が起こりました。50年以上のつきあいになる親友の北川さんから東広島市で開催する原爆展で「おんぶした兄弟」の写真を展示させてほしいと依頼されたからです。

RCC

竹本秀雄さん
「77年ですよ。毎年、思いました。やっぱり言っていかんといけないのかというのはありましたね。ちょっと重たかったですけど。今はすごく軽くなっています」

今週、原爆展のスタッフが竹本さんの自宅に集まって打ち合わせをしました。原爆展を企画した岩城さんは、竹本さんの深い思いに理解を示しました。

東広島原爆展 黒瀬会場 実行委員 岩城学さん
「あの頃は差別があった。原爆に対する。これは家族のことを考えると言えない。放射能という怖い、目に見えないもののせいですよね」

RCC

77年間、語らなかった戦後。竹本さんは、今度の日曜日に開かれる原爆展で、初めて証言することを決めました

RCC

竹本秀雄さん
「やっぱり戦争です。戦争は本当に悪いと思います。戦争はいけませんね。それは大にして言いたいですね。泣くのは一般市民です」

※竹本さんの被爆証言は10日、午前10時から広島県東広島市黒瀬生涯学習センターでの原爆展の中で行われます。