<南風>生きること、自由ということ

 私が子ども・学生の頃、日常に携帯電話もネットもなく、見て読んで、といえば紙に書かれたものだった。とにかく本とマンガが好きで、小学校の行き帰りに歩きながらマンガを読むのが得意だった(ドブに落ちたり、電信柱におでこをぶつけたりというまさにマンガのような失敗もあったが)。

 多感な時期になると、新潮などの文庫本に情熱を注ぐようになり、特に興味津々だったのが、モーパッサン、ラディゲ、スタンダール、ラクロといった昔のフランスの小説家が描く、男と女の世界だった。深淵(しんえん)な哲学的あるいは宗教的テーマがあったとしてもピンとこなかったのは年齢的限界と許していただきたい。

 とりわけ影響を受けたのが「女の一生」である。自由の国というイメージが強かったフランスは、19世紀にはおよそ女性の自由はなく、まずはそのことに衝撃を受けた。主人公の女性はひたすらに世間知らずのまま結婚し、精神的にも物理的にも夫の所有物となるのだが、これは当時女性であれば誰しもであった。

 結婚後主人公には次々と不幸なことが起こるが、彼女が自分の人生の主人公であるとはとても感じられない。読み終わる頃の私の頭の中は「自己主張すること=生きること」という考えで一杯になった。大人になり弁護士になった今、この考えは一層強まり、自身の人生においても仕事においても大事な指針である。

 だからこそ、自己主張すること自体が許されない社会の在り方に目をつぶらず声を上げることは、時に苦しいけれども、やめてはいけないと思っている。ジャンヌ(上記主人公の名)の生き方を私がかわいそうに思ったように、未来の誰かが今に生きる我々を描いた小説を読み自由の享受においてかわいそうだと感じたら、それだけ社会が進んだ証拠なのだろう。そうした未来を信じたい。

(林千賀子、弁護士)

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