惨事の中生まれた“命” 長崎大水害から40年 氾濫する中島川近くの病院で出産 柴原美知子さん(70)=長崎市=

大水害のさなかに生まれた剛さん(画面)と母美知子さん=長崎市

 あの夜、濁流が荒れ狂う中島川近くの産婦人科(長崎市万屋町)で男の子が生まれた。当時30歳だった母親の柴原美知子さん(70)=同市みなと坂2丁目=は「たくましく生き抜く強い子に」との思いを込め、剛と名付けた。剛さんは命の尊さを感じながら、今を生きている。死者・行方不明者299人を出した長崎大水害から23日で40年。
 予定日から3日ほど過ぎていた。1982年7月23日午後3時過ぎ、「気配」を感じて、美知子さんは同市岩瀬道町の自宅から義母と牟田産婦人科へ。天候を気にする余裕はなかった。「産むことだけを考えていた」と美知子さんは振り返る。
 長崎海洋気象台(当時)が県本土に大雨・洪水警報を発表した午後4時50分ごろ、陣痛が始まった。2階の分娩(ぶんべん)室に入ったのが午後7時ごろ。雨は一層激しさを増し、浦上川や中島川が氾濫していた。午後8時27分、産声が上がった。その瞬間、停電で分娩室が真っ暗になったが、すぐに非常用電灯が点灯。その明かりの中で、元気な泣き声が響き続けていた。

大水害の日、中島川近くの産婦人科で出産した剛さん(左)を抱く美知子さん(1982年7月撮影)

 その夜、連絡が付かなかった夫は、翌日、赤ちゃん(次男)と対面。病室の窓から外を見ると、冷蔵庫やスイカが濁流に流されてきていた。「(来院が)夕方だと危なかったかもしれない。早い時間帯でよかった」。美知子さんは惨事を思い知らされたと同時に、無事に出産できたことへの安堵(あんど)感が込み上げた。
 実際、美知子さんが出産している最中、産婦人科の1階は浸水していた。看護師らがカルテなどを避難させたようだったが、翌日からの病院食は毎回菓子パン。見かねた義母が毎日お弁当を届けてくれた。
 剛さんは現在、埼玉県在住。毎朝ジムに通い、筋骨隆々で、美知子さんは「名前どおり健康で元気に育った」と笑う。ただ、剛さんは昔から自分の誕生日を素直に喜べない。「自分が喜んでいる日に、299人の遺族が悲しんでいると思うと…」。毎年複雑な感情になる。「今でも毎年ニュースで見ると、当時の被害の大きさに胸が痛む」と剛さん。
 大水害のさなかの出産は当時、長崎新聞などで大きく報道され、打ちひしがれていた市民を明るい気持ちにさせ、希望を与えた。「剛という名前にはいろいろな思いが込められている」。23日に40歳の誕生日を迎えた剛さん。あらためて命の重みをかみしめている。


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