エアチェック全盛時代「FM局とFM雑誌」ヒットづくりの重要メディア  洋楽にとって貴重なメディアになったFM雑誌。なかでもFM STATIONの躍進はすごかった!

音楽マーケット拡大に重要な役割を果たしたFM局とFM雑誌

私が1973年にCBSソニーに入社し、社内異動で希望の洋楽部門へ移ったのが1978年。最初の仕事はメディアを受け持つ宣伝でした。1981年にディレクターになるまでの数年間、新聞、TV、FMなどを担当しました。それぞれ面白い経験でしたが、何といってもヒット曲はラジオから生まれていた時代です。FM局では音楽が主役ですし、AMとは違ってアーティストやアルバムも紹介できる電波メディアでした。

この頃のFM事情ですが、FM局の数も80年代に入って、民放では、それまでの FM東京、愛知、大阪、福岡に加えて、第二弾として北海道、仙台、広島、愛媛、長崎、など続々開局しています(後に断続的に1県1局目指して開局が続きます)。地方主要都市に音楽、特に洋楽が流れる機会が圧倒的に増えてきました。開局間もない頃は、どこの FM局も高音質をウリにしていたこともあり、クラシックやジャズなど含む洋楽番組が編成のメインになってました。

そしてポイントとなるのが、FMにはFM誌という運命共同体のメディアがあったということです。このFM誌も、80年代の音楽マーケット拡大に重要な役割を果たしています。番組と雑誌の主力スポンサーにもなっていた音響メーカーの狙いはFM チューナー、そしてカセットデッキ。“どうぞ録音してください” と放送予定曲と番組表を掲載したFM誌は部数増大。

こうして彼らの狙い通りに、FMエアチェックが広まり、若者の間にはラジカセが大流行しました。80年代半ばには、FMエアチェック文化も全盛を迎え、そこでさらにブームを押し上げたのが、FM各誌が付録につけたカセットレーベルでした。

洋楽にとって貴重なメディアになったFM雑誌と、FM STATIONの躍進

ちなみに番組表ですが、FM局が少なかった時代はシンプルで見やすいものもありました。しかし80年代半ばから FM多局化が始まると、FM誌も FM局所在地にあわせて東版・西版と分けて発行されています。

とはいえ、皮肉なことにその頃には、番組の作り方が生放送寄りになったのか、エアチェックのブームも一段落したからなのか分かりませんが、番組表へのニーズもなくなり FM誌から外されることになりました。それでも、FM誌は、総合音楽情報誌として、特に洋楽にとって貴重なメディアに育っていました。

FM誌のカセットレーベルと言えば、当時のエアチェック文化の産物のひとつでした。4誌ある FM誌の中で最も後発だった『FM STATION』が、創刊後の編集方針変更に伴い、途中から鈴木英人さんのイラストを、表紙と付録のカセットレーベルに採用しました。これが功を奏して部数を伸ばして、遂にはそれまで最大部数を誇っていた『FMレコパル』まで追い抜いてしまったことが思い出されます。

彼のアメリカの景色を切り取った独特のイラストと80年代の洋楽は、完全にオーバーラップします。それだけ『FMステーション』の表紙に馴染んでいたということでしょうか。また彼のイラストは山下達郎の『FOR YOU』やラリー・リーの『ロンリー・フリーウェイ』、ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの『ベイエリアの風』などのアルバムカバーも飾っています。

高音質録音を可能にしたメタルテープ発売、その裏で…

実は FMエアチェック時代が全盛を迎える頃、メーカーは、さらなる高音質録音にふれこみメタルテープも発売しました。さすがにレコード業界的には、このままいくとレコードが売れなくなる、という危惧もあり抵抗を示したこともあります。今思えばちょっとした意地悪ですが、FM でのオンエア時に必ずイントロにDJのナレーションを重ねるとか、曲終わりは途中からFOするとか、FM局に対して行政指導的なお願いをしました。

とはいえ、リスナー(エアチェックユーザー)からの猛反発もあり、短い期間でしたし、そもそもあまり強制的なものではなかったのです。なにしろ、当時の主要レコード会社の親会社は大体が電器メーカーでした。ソニー、東芝、ビクター、パイオニア、日立etc. いずれも音響機器を発売していましたし、親のビジネスを子供のソフトウェアが応援する、という図式になってました。

例えばビリー・ジョエルですが、アルバム『イノセント・マン』の発売は1983年。この頃はNHK以外の民放FM局も東名阪福に次いで、第二波グループ(北海道や仙台他)も誕生していました。もちろん、ヒットづくりにはまだまだAMが力を持っていましたが、AMはほぼシングル曲オンリーです。

アルバムは、ファーストシングル「あの娘にアタック」以外もポップセンスあふれる楽曲ばかりでした。FMはアルバムからも楽曲をかけてくれます。つまりアルバムの良さは、FMでしか伝えることができなかったのです。

特に、FM東京は『ストレンジャー』『ニューヨーク52番街』の頃から、非常にビリー・ジョエル・フレンドリィな局でした。ラジオのレイティング週となると、必ずビリーの特集を組むといった具合でした。

そもそもビリーの新譜でFMプロモーションに苦労した記憶はありませんし、こちら側もインタビュー素材などある場合には、まずはFM東京に対してサプライしていました。もちろん、エアプレイはシングル曲がメインですが、それでも、夜遅めの番組には、例えば、アルバムから「夜空のモーメント」や「今宵はフォーエヴァー」など、時間帯別のモードに合わせた曲を選んでいます。

ビリー・ジョエルに何が!? ヒットづくりを支えたFM放送とFM雑誌

実は、いくらFM東京がビリー・ジョエルに優しいと言っても、一度だけ痺れる場面がありました。80年代後半のアルバム『ストーム・フロント』の発売時ですが、彼が住むロングアイランドで日本向けに取材を行った時のことです。

小人数のプレスコンファレンスの後、TV生出演そしてFM東京の取材がブッキングされていました。TVまでは予定通りに終えたのですが、なんとFMのインタビューの前に、ビリーが姿を消してしまったのです。彼にしては珍しくドタキャンしたのです。

あせったのは私です。そこには、この取材だけのために、FM東京のプロデューサーもアテンドしていました。とはいえ、消えたビリーは二度と戻ってこなかったし、マネージャーもお手上げでした。

これもレイティング調査週に合わせた特別企画で、夜時間帯の大型スポンサーの大事な番組でした。帰国早々、局に謝りつつ、企画としてのインタビュー取材が流れたわけですから、代替案が必要です。

これは本当に大ピンチでしたが、たまたまアメリカCBS経由から日本のFM局への売り込み用にと、ライブ音源が届いたところでした。ビリーの未発表ライブ音源です。売り込み前でしたし、ドタキャン事件の処理には最適な素材であり、そのまま無償で局に提供しました。有料のモノを無料提供したこと、アメリカCBSにどういう説明したのか忘れましたが、これにて一件落着でした。

特にビリー・タイプの音楽や、80年代の一大ブームでもあったAORなどは、『MUSIC LIFE』や『ONGAKU SENKA(音楽専科)』でもなく、『rockin'on』ではなく、FM誌が支えていました。ヒットづくりに FM放送と FM誌の役割は重要でした。

アメリカMTV登場以降のMVがTVに登場し、お茶の間に洋楽が流れるようになったわけですが、日本ではさらに、まずはFM放送で洋楽を聴き、FM誌でアーティストの詳細を知る… この基本的な露出があったからこそ、リスナーは80年代洋楽の理解を深めることができ、そこから数々のヒットが生まれたものだと思います。

※2019年9月3日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 喜久野俊和

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