1970年に起きた「コザ暴動」、ある若者がラジオ記者のマイク奪って叫んだ「沖縄人の涙を分かるか!」 米軍基地に積もる不満、今もくすぶる火種

沖縄・コザ市(現沖縄市)で車を焼く群衆=1970年12月20日

 歓楽街から集まり始めたやじ馬たちが群衆にふくれあがり、米兵らの車両を次々に倒して火を放つ。「やっつけてやるべきだよ」「うちなーんちゅ(沖縄人)はアメリカーにばかにされてや」。怒号が飛び、拍手が湧いた。沖縄の日本復帰が発表された翌年の1970年12月20日未明、米軍嘉手納基地に面したコザ市(現沖縄市)中心部。米兵の車両に地元の男性がひかれた事故をきっかけに、鬱積した民衆の怒りが燃え上がった「コザ暴動」が起きた。基地がもたらす人々の不満が噴き出し、当時の米政府が事態を深刻に受け止めた記録も残る。沖縄は今年、日本に復帰して50年を迎えたが、米軍が絡む事件、事故は後を絶たず、火種はくすぶり続けている。(共同通信=西山晃平)

 ▽「人間として認めて」

 「ラジオ沖縄」の記者だった玉保世英義さん(74)は当時、コザ暴動の現場に駆け付け、取材に当たった。米軍憲兵が夜空に向かって威嚇発砲する中、駆け寄ってきた若い男性が「言いたいことがある」とマイクを奪い、必死に叫んだ様子を今でも鮮明に覚えている。

インタビューに応じる元「ラジオ沖縄」記者の玉保世英義さん=1月18日、沖縄県糸満市

 「国際問題になるんだから。日本全国の問題。今日は事故があったらしいんですよ。加害者のアメリカ人を追跡した沖縄人の車にピストルをね、MP(憲兵)が10発以上発射して、沖縄人は死んだかもしれない。私は悲しい。沖縄はどうしたらいいのか。沖縄人、人間じゃないか。ばかやろー!この沖縄人の涙を分かるか。これ国際問題に発展してね、沖縄人を人間として認めさせんといけない」
 住民らは事故処理中の憲兵らを包囲し、米軍側の車両に次々と放火、70台以上を焼いた。米側、沖縄側の負傷者はいずれも数十人とされ、琉球警察も出動し、多くの逮捕者が出た。
 事件が起きた背景には、米国による統治下の悲惨な事件や事故があった。終戦から10年後の1955年、6歳の女児が米兵に暴行・殺害される事件が起き、地元を震撼させた。59年には小学校に米軍ジェット機が墜落し、児童ら17人が犠牲になった。沖縄の市民団体「基地・軍隊を許さない行動する女たちの会」がまとめる年表に事件が連なる。「生後9カ月の赤ちゃんが、母親顔見知りの米兵に連れ出され、強姦される 49年」「10代の少女、父親と長兄の面前で米兵に強姦され、精神を病む 50年代半ば」
 ベトナム戦争が始まると、荒れた米兵らによる事件はさらに増加した。責任はうやむやにされ、住民らは泣き寝入りを強いられた。コザ暴動の約3カ月前には、糸満町(現糸満市)で飲酒運転の米兵が主婦をはねて死なせながら、軍事裁判で無罪になっていた。怒りのマグマは、噴出寸前だった。ひき殺された主婦と知り合いだった玉保世さん。「沖縄人を人間と認めさせんといけない」と叫んだ男性の訴えは、「沖縄の声を代弁していた」と振り返る。

沖縄・コザ市(現沖縄市)中心部の路上に放置された車=1970年12月20日(AP=共同)

 死者は出ず、一定の秩序が保たれたコザ暴動。直後に米側の要人と会談した屋良朝苗・琉球政府行政主席(故人)は、沖縄の人々は本来温和だとして「弱者が感情を表現できる唯一の手段」だったと説明した。屋良氏は後年、回顧録にこうも書きつづっている。「経済的に米軍に依存するコザ市の中心で起こっただけに、市民の心の中にくすぶる米軍への恨みや不信感がいかに根深いかを思い知った」

 ▽「巨大基地、摩擦は必然的」、米国も認識

 コザ暴動は、ニクソン米大統領にも伝わっていた。機密指定文書解除された米公文書が、衝撃の大きさの一端を示す。米中央情報局(CIA)は、大統領への日次報告で「コザ暴動は本土と沖縄の双方で、日米両政府への批判に火を付けた。日本政府は、沖縄の基本的人権が無視された状況を容認したと非難された」と伝えた。
 CIAは、1971年2月にも「沖縄返還 困難な移行」と題した特別報告書をまとめている。コザ暴動が起きた背景として、日本政府が沖縄返還後も在沖縄米軍基地を許容することへの「失望と焦燥」があったと指摘。住民らは経済的な不安にもさいなまれており、コザ暴動は過去に例のない「完全に自発的なものだった」と解説した。

コザ暴動についてCIAがまとめた特別報告書

 報告書は米軍への批判も展開した。漏えい事故があった毒ガスの撤去が遅れていることなどを挙げて「米国の失敗」と断じ、軍関係者による事件や事故は、それまで米国側が気にも留めてこなかった規模のものでも「コザのような無秩序を引き起こすかもしれない」と強調した。日本政府については、沖縄の不満に寄り添わざるを得ず、米国との交渉では特に人口密集地の那覇地域からの基地移転圧力を強めるだろうと見通した。その上で、次のように結論付けた。「要するに(沖縄)返還で問題が解決するとは限らない。日本に施政権が移っても、巨大な基地の存在は必然的に摩擦を引き起こす。返還後、米国は恐らく基地統合の強い圧力にさらされる」

 ▽続く被害、「統治下と変わらない」

 沖縄は1972年、再び日本となった。しかし、望んだ基地の整理・縮小は進まず、今も在日米軍専用施設の約70%が沖縄に集中する。「女たちの会」の年表は、復帰後も刻み続けられる。「高校生が学校の帰途、3米兵にナイフで脅され、公園内で強姦される 84年」
 米軍普天間飛行場(宜野湾市)に隣接した沖縄国際大には2004年、米軍のヘリコプターが墜落し、炎上した。奇跡的に死者は出なかったが、県庁で取材していた玉保世さんは、米軍が現場を封鎖したとの連絡を別の記者から受け「米国の統治下と変わらない」と衝撃を受けた。
 封鎖に抗議する人々。憲兵が、封鎖エリア内で取材した記者の両脇をつかむと、緊張はさらに高まり、方言で「たっくるせ(殺せ)」という罵声が飛び始めた。当時、沖縄国際大に勤務していた富川盛武元県副知事は、米軍の上官を呼んで場を収めたが「一瞬即発だった」と振り返った。
 最近、住民を脅かしているのは、基地から流出する有害物質だ。2021年8月、日米両政府が有機フッ素化合物「PFOS」などを含む汚水の処分方法を巡り協議していた段階で、米軍は普天間飛行場から下水道に放出した。住民らは強く反発しているが、日本政府を動かすような国民的世論の高まりには発展していない。

1970年に飲酒運転の米兵が主婦をはねて死なせた現場周辺を訪れた玉保世英義さん=1月、沖縄県糸満市

 中国が沖縄県の尖閣諸島周辺での活動を活発化させ、与那国島からわずか110キロの台湾に対する統一圧力を強める中、基地被害を訴える沖縄県民の不満は見過ごされがちだ。
 玉保世さんは折に触れ、暴動の現場を思い出す。「復帰前、怒りは米軍に向けられた。抗議の先は日本政府に変わったが、政府は県民をなだめるだけ。こんな状態が50年も続くとは思わなかった」

© 一般社団法人共同通信社