77年前、大阪で原爆投下の訓練が…「電線に人間の内臓がぶら下がっていた」

大阪市東住吉区田辺に「模擬原爆」が投下されてから77年となる7月26日、爆心地から約300メートル離れた恩楽寺で犠牲者の追悼式が行われた。新型コロナウイルス感染の急拡大のため、例年出席する市内の中学生らはオンライン参加となり、50人に制限された参列者が当時を知る住民の語る惨状に耳を傾け、平和への誓いを新たにした。(新聞うずみ火 矢野宏)

追悼式が行われた恩楽寺=7月26日、大阪市東住吉区

模擬原爆は、長崎に落とされたプルトニウム型原爆「ファットマン」と同じ形状で、直径約1・5メートル、長さ約3・2メートル、約5トンの通常火薬を詰め込んだ大型爆弾。原爆を投下した際に起きる爆風に巻き込まれないよう急旋回するための訓練に使用された。ずんぐりした型で黄色く塗られていたことから「パンプキン」と呼ばれていた。

終戦直前の1945年7月20日から全国各地に計49発が投下され、400人以上が犠牲となった。そのうち1発が現在の大阪市立田辺小学校近くに投下され、7人が死亡、73人の重軽傷者を数え、400戸以上の家族が倒壊、焼失したという。

追悼式では、投下時刻の午前9時26分ごろに参列者が黙とうした後、住民らが当時の体験を語った。

当時4歳だった松本道明さん(81)は、投下地点から約200メートル離れた自宅前で三輪車に乗っていた。不気味な音がして空を見上げた瞬間、ドカーンという爆音とともに爆風で吹き飛ばされた。幸いけがはなかったが、その後、赤い火柱が上がったり、路面電車のポールが落ちたりした光景をはっきりと記憶しているという。「子供ながらぶるぶると震えた当時の怖さは鮮明に覚えている。戦争ほど悲惨なものはない」と語った。

模擬原爆投下の様子を話す山本さん=7月26日、大阪市東住吉区

当時、国民学校の教師だった龍野繁子さん(97)はあの日、学徒動員の生徒20人を引率して海軍士官のボタンを作る工場にいた。物資のない時代、工場長から言われた「先生きょうも材料が入ってませんねん。隣で勉強でもしといてください」との一言が龍野さんらの命を救った。生徒らと何の授業をしようかと相談した時、隣の部屋で「バリバリバリ」「ドスン」という激しい音がした。見てみると、2階建ての工場の屋根を突き破り、大きな石が1階の床下まで落ちていたという。

おすすめ記事:「核兵器禁止条約」初の締約国会議 日本政府はオブザーバー参加すら拒否

「大人でも両手で抱えきれないほどの大きさでした。爆心地である料亭『金剛荘』の日本庭園にあった石が150メートルも空を飛んでここまできたんです。私たちは命拾いしました」

龍野さんの自宅は爆心地から約150メートル南の地点。帰宅すると、ガラスなどが割れていた。幸い家族は無事だったが、姉の親友「トシちゃん」の死を知らされた。

当時の体験を語る龍野さん=7月26日、大阪市東住吉区

「トシちゃんは金剛荘近くに住んでおり、その日朝、病気の姉に薬を届けに来てくれたのです。玄関先で『しげちゃん学校行くんやろ。行っといでまたね~』と交わした会話が最期となりました」

龍野さんは爆心地の様子も目の当たりにした。金剛荘は跡形もなく、電線には畳や衣服、人の内臓までもがぶらさがっていたという。

あまりにも悲惨な光景で話したりすることができなくなった。「忘れられるものなら忘れたい。この惨状を思い出すのが怖くて逃げていました」

その後、友人から「辛いことかもしれんけど、それを伝えることも大事ではないか」と言われて悩み抜いた末、あの日の惨状を語ることを決意した。

龍野さんは、追悼式に参列した児童らに「人間の知恵で乗り越え、争いのない世界を築いてほしい」と訴えた。

模擬原爆は長崎に踏査された原爆と形状も重さも同じだった

おすすめ記事:戦争の裏面史「特攻隊員にピロポン」女学生が包んだ覚醒剤入りチョコレート

オンラインも含め、追悼式に参加した地元の小中学生らは「地元に落とされた模擬原爆が広島・長崎につながっていることを初めて知った」「私たちのまちに起きたことを忘れず、語り継いでいきたい」「平和な世の中が続くために何ができるのか考えていきたい」などと平和へのメッセージを読み上げた。

© 株式会社うずみ火