明石空襲 戦災孤児の小林さん「両親は盾となって守ってくれた…」

JR明石駅から車で北へ6分ほど。兵庫県立明石公園の北側を切り開いて造成した墓地「玉津南墓園」がある。

「うちの防空壕があったのはこの辺りやわ」

小林さんの視線の先には丘陵の斜面があるだけだが、父親がここに横穴を掘って頑丈な防空壕をつくっていたという。

77年前の1945年6月26日朝、兵庫県明石郡玉津村(現・神戸市西区玉津町)に空襲警報が鳴り響いた。当時、小林さんは2歳。両親と兄、姉、妹、それに母方の祖父母との8人家族。父の正一さんは呉服商を営んでいた。

村人の多くが小学校へ避難するなか、両親は子どもたちを連れ、足の不自由な祖母をリヤカーに乗せて大谷川を越え、山の防空壕へ避難した。

明石空襲の慰霊碑に手を合わせる小林さん

防空壕の中には小林さんと兄と姉、祖父母が入っていた。母は生後4カ月の妹を抱き、父と戸板と布団をかぶり、防空壕の壁にもたれていた。近くでB29爆撃機から投下された爆弾がさく裂した……。

■防空壕崩れ、生き埋めに

空襲警報が解除され、村に人々が徐々に戻ってきた。一人の村人が気づいた。小林さん一家が戻っていない。「小林の正一あん、山や!

消防団員らが現場へ駆けつけると、両親は爆弾の破片を全身に受けて死んでいた。父は42歳、母は36歳だった。父の自慢の防空壕は爆風で崩れ、小林さんらが生き埋めになっていた。

「誰も気づいてくれなかったら、あの日にみんな死んでいたでしょう。日ごろから父は村の人たちに気さくに声をかけ、山に作った防空壕の話をしていたそうです。父の人柄で助けてもらえたようなものです」と小林さんは振り返る。戦後、助け出してくれた消防団員からその時の様子を聞かされた。

「赤ん坊だった妹は母の腕の中で生きていたそうです。死後硬直を起こしていた母から妹を取り上げなければならないでしょう。消防団の人は母に『ねえさん、かんにんやで』と声をかけ、母の指を1本1本外して妹を救い出してくれたのです。でも、それから2カ月以内に妹は死にました。栄養失調だったそうです」

「ここに防空壕がありました」と話す小林さん=神戸市西区

祖父母は、その日のことは何も語らなかったという。

「幼子3人を残し、頼りにしていた2人に先立たれたのですから。特に母は一人娘でしたからね」

2歳だった小林さんは、両親の顔も覚えていない。空襲で自宅も焼失し、手がかりとなるものも残っていない。

「夫婦仲はよく、自転車に二人乗りして明石駅前にぜんざいを食べに行っていたそうです。父親の写真は一枚だけ残っていましたが、横顔なのです。それもなぜか、洋服姿なのです。母親の写真は一枚もありません。かなうならば、夢でもいいから母親の顔だけでも見たいね」

「自宅も空襲で焼けました」と小林さん

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真夏の昼下がり、小林さんの額から汗が流れ落ちた

■標的は航空機工場

明石市は1945年1月から7月にかけて計6回の空襲があり、県内では神戸市に次いで2番目に多い1560人が犠牲になっている。うち4回が川崎航空機明石工場を標的にした空爆だった。

陸軍の最新鋭戦闘機のエンジンを製造する全国有数の軍需工場で、全国から学徒勤労報国隊や女子挺身隊が動員されていた。国鉄山陽線で通勤する者が多くなり、その便宜をはかるため工場近くに「西明石駅」が開設されている。

明石市史によると、1月19日の空襲で川崎航空機明石工場では263人が死亡した。

工場は6月に入ってから3回にわたって空襲にさらされた。9日は日本本土空爆で初めて超大型の2トン爆弾が72発投下されたが、梅雨の悪天候に阻まれ、すべて工場を外れて住宅地を直撃した。この「誤爆」で、明石公園に避難した市民269人を含む644人が命を落としている

22日に続き、小林さんの両親を奪った26日の空襲では21機のB29が184トンの爆弾を投下、工場のほか周辺地域で多大な犠牲を出した。

その後、攻撃目標は市街地へ移され、7月7日には123機のB29が1045トンもの焼夷弾を投下し、明石は焦土と化した。

■祖父の死で姉と別れ

祖父は跡地にバラック小屋を建て、3人の孫を育てた。だが、小林さんが小学校に入学した翌日、急死する。小林さんと兄は父親の兄夫婦に引き取られ、姉はそのまま残ることになった。

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引き取られた伯父宅には、育ち盛りのいとこたちがいたが、我が子同様に厳しく育ててもらったという。「僕は77歳ですが、未だに伯母はお母さんです。伯母さんと思ったことが一度もありません。それに比べて……」と一瞬、言いよどんだ。

空襲で亡くなった両親と妹はこの墓に…

「姉は中学校へも行かず、近くの鋳物工場の事務員として働きに出て、祖母を養ったのです。両家で取り決めていたのか、姉が訪ねて来ることはありませんでした。僕が5年生の時に修学旅行で小さな五重塔を買って帰り、姉のところへ走っていったときも後ろめたい気持ちでした。空襲さえなければ、僕らは離れ離れにならんですんだのに……。でも、両親は僕らの盾となって守ってくれたんやと思うてます」

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