浮上した米潜水艦が探していたのは…。両手を縛られた捕虜。墜落した軍用機の乗組員だろう。「やったな。敵を捕まえた」。皆が罪人を眺める感覚だった〈証言 語り継ぐ戦争〉

灯火管制で布に覆われた電球を描いた寺地輝男さん=阿久根市大川

■寺地輝男さん(92)鹿児島県阿久根市大川

 小学校の修学旅行帰りの夜。鹿児島市から自宅のある現・阿久根市の大川駅に列車で戻った。明かりが漏れないよう窓が全てふさがれ、通過する駅もほとんどの照明が落とされていた。初めて経験する灯火管制だった。

 その日は日本がハワイの真珠湾を攻撃した1941年12月8日。太平洋戦争が始まった日だ。自宅の電球もかさごと厚手の布に包まれるようになった。「海の向こうの戦争が身近に迫っている」と実感した。

 すでに日中戦争が始まっており、集落の大人にも召集令状が届いていた。新聞もラジオも「いけいけどんどん」。幼い私は「わが皇軍は強くて優秀」という教育を信じ込んでいた。

 だが戦死者は次第に増えていった。町葬の準備が追いつかなくなったのだろう。ある時期から規模を縮小した校区葬に切り替わった。校庭の中央には祭壇が設けられ、何度も遺骨が並んだ。

 覚えているのは、外まで漏れてきた近所の女性の泣き声だ。まだ30歳前後で、幼い子どもが2人いた。家をのぞくと、喪服を着た女性が仏壇の前で泣き崩れていた。夫の戦死通知を受け取った直後だったという。

 体が小さかった私は、大川国民学校高等科を卒業後、14歳で阿久根農学校に入学した。周囲には兵隊や満蒙開拓青少年義勇軍に志願する同級生もいた。

 45年になると戦局が悪化し、阿久根にも米軍機が頻繁に現れた。そのたびに監視役の消防団員が手回し式のサイレンを鳴らし、空襲警報を伝えた。

 海軍航空隊がある出水方面を攻撃した米軍機が去った後、農学校の監視所に上がった。脇本沖で潜望鏡が顔を出し、白波を立てていた。しばらくして米軍の潜水艦が浮上した。艦砲射撃に備え、すぐ監視所を下りた。

 その日、海に墜落した米軍機から米兵1人が警察署に連行されたと聞いた。潜水艦は米兵を助けるために出動したようだ。下校時、捕虜を見ようと友達数人で署に向かった。

 目にしたのは両手を背中で縛られ座っている軍服姿の米兵だった。「やったな。敵を捕まえた」。子どもながらにうれしく思った。相手は攻撃を仕かけてきたパイロット。当時は多くの人が罪人を眺める感覚だったに違いない。

 農学校の畑で実習中、米軍機の機銃掃射に見舞われ、校舎の一部が壊された。私は防空壕(ごう)に逃げる間もなく、おびえながらその場に伏せ続けた。攻撃が終わると10センチほどの薬きょうが落ちており、手のひらにのせた。まだ熱かった。あの感触は忘れられない。

 終戦間際の8月12日、市街地が大規模な空襲を受けた。翌日一帯を歩くと、建物の全てが焼き尽くされ、白煙が至る所で上がっていた。「軍事施設でもないのに。ここまで徹底的にやるのか」と悲しくなった。

 戦時下では学校も民家も容赦なく狙われる。戦争は絶対にやってはいけない。今の時代、どの国も自国の力だけでは生きていけないはずだ。「昔、戦争という言葉があったね」と言い合える日が来てほしい。

(2022年8月17日付紙面掲載)

空襲警報のサイレンが設置されていた方角を示す寺地輝男さん=阿久根市大川
灯火管制や米軍の捕虜について振り返る寺地輝男さん=阿久根市大川

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