出征した父は36歳で戦死。物心ついた時にはいなかった。よその家がうらやましく、1人きりで「お父さん」と呼びかけたことも。戦地から届いた手紙が1通だけ残る。「なぜ志願したのか。どんな最期だったのか」いつも問いかけている〈証言 語り継ぐ戦争〉

父の加治木優さんからの手紙を手に戦時中の記憶を語る丸野茂子さん

■丸野茂子さん(82)鹿児島市明和2丁目

 物心ついた時から父はいなかった。父親のいる家庭がうらやましく、誰もいない部屋に向かって「お父さん、お父さん」と呼びかけたこともあった。4歳の時、父加治木優は36歳で戦死した。

 太平洋戦争が始まるちょうど1年前の1940年8月15日、大和村で生まれた。父と母、3歳上の姉の4人家族。開戦後、警察官だった父が海軍志願兵として出征してからは、母の実家の郡山町(現鹿児島市)に移り住んだ。

 生活の端々に父を感じることはあった。父が買ってくれた姉とおそろいのワンピース、きれいな着物、戦地から母に届く手紙がそう。手紙のほとんどは93年の「8.6水害」で流れてしまったが、1通だけ残っている。「子ども親族一同みな元気かね」「よくよく子どもたちには気を見張るように」…。形見として、仏壇に飾っている。

 郡山では空襲に何度も見舞われた。それぞれの家の裏山に防空壕(ごう)が掘られ、空襲警報が鳴る度に避難し、解除になったら家に戻る日々。夜は明かりが漏れないよう、電球の傘を風呂敷で覆い、暗がりの中で過ごした。枕元には防空ずきんを置いて眠った。

 防空壕入り口の木の戸をずらし、外を一度だけ見たことがある。米軍爆撃機B29の大群が空を覆い、たくさんの爆弾を落としながら飛んでいる様子が怖くてたまらなかった。

 ある朝、防空壕から自宅に戻ると、庭にむしろが敷かれ、7人ほどの見知らぬ大人や子どもが眠っていた。逃げ場に困り、避難してきた人とすぐ分かった。「困った時はお互いさま」と母は団子汁を振る舞った。

 主食は麦ご飯や畑で育てた芋を入れた「からいもご飯」だった。おやつといえば芋を練ったあめ。食糧難で魚や肉を食べた記憶はほとんどない。終戦間際には「アメリカ兵が上陸してくるので、女は男のように丸刈りにした方が良い」といううわさも広がった。

 敗戦の日は5度目の誕生日だった。仏壇近くの床の間に置いたラジオの前に家族3人で立ち、うつむきながら玉音放送を聞いた。母は泣いていた。

 しばらくして、父の戦死を知らされた。45年2月23日、どこでどのように亡くなったかは分からない。遺品が入った小さな木箱を抱え、涙を流していた母の姿が鮮明に残っている。

 死を受け入れられない半面、もしかしたら帰ってくるのではという期待もあった。いつまでも悲しみにくれていては日々を生き抜けないと母は思ったのだろう。家族で父の話は避けるようになった。一家の大黒柱となり、女手一つで私と姉を育て上げた母が弱音を吐くことはなかった。

 ロシアによるウクライナ侵攻が報道される度に、幼少期と重なる。なぜ、父は戦地に行くことを望んだのか、どんな最期を迎えたのか、いつも問いかけている。

 未来のために尊い命を掛けて戦った人がいたこと、悲しい歴史の上に今の日本があることを忘れないでほしい。同じ苦しみを味わってほしくない。世界中の人が手を取り合える日が一日も早く訪れることを心から願っている。

父の加治木優さんが買ってくれた姉とおそろいのワンピースを着て記念写真を撮る4歳の丸野茂子さん(右)
父・加治木優さんが戦地から家族に送った手紙

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