「再発防止は事故を風化させないこと」明石歩道橋事故遺族が記録集

兵庫県明石市で2001年7月21日夜、花火大会の見物客が歩道橋で転倒し11人が亡くなった事故が発生してから21年を迎えた。遺族らが事故の記録をまとめた書籍「明石歩道橋事故 再発防止を願って~隠された真相 諦めなかった遺族たちと弁護団の闘いの記録」(神戸新聞総合出版センター)を出版した。現代社会の病理を浮き彫りにした労作だ。(ジャーナリスト 粟野仁雄)

群衆雪崩で戦後最悪の事故は1956年元日に新潟県弥彦(やひこ)村にある弥彦神社で起きた事故である。宮司がまいた紅白の「服もち」に多数の初もうで客が殺到、階段で玉垣が壊れて将棋倒しとなり、124人が死亡した。この事件では、事故防止のための対策が不十分であったことが指摘され、警備に当たった警察や神社側の責任が厳しく追及された。

弥彦神社の本殿(弥彦神社のHPより)

明石歩道橋事故の遺族らは2001年7月21日の事故の翌年、弥彦神社の慰霊碑を訪れ、19歳の娘を亡くした高齢の母親に会っている。歩道橋で8歳の二女優衣菜ちゃんを奪われた三木清さんは「神社の事故から半世紀近く経っても『娘のことは一日も忘れない』と言っていた。自分も一生、優衣菜のことを背負っていくんだと感じた。お母さんには『私たちの教訓が生かされなくてごめんね』とも言われたんです」と振り返る。

記録集「明石歩道橋事故再発防止を願って」(神戸新聞総合出版センター 2200円)の編集の中心となった遺族は、75歳だった母トミコさんを失った白井義道さん(62)と、9歳の長女千晴ちゃんと7歳の長男大ちゃんを亡くした有馬正春さん(63)だ。

白井さんは「事故ではなく事件です。私たちの願いである『真相究明と再発防止』につなげる本にしたかった。遺族らの手記だけを載せて悲しい出来事というだけにはしたくなかった」と語る。女手一つで白井さんを育てたトミコさんは絵が好きで、本にも素敵な挿絵が何枚か載る。「きっと絵の題材を探しに花火に行ったんでしょう」と振り返る。

本を出版した(左から)有馬正春さん、佐藤健宗さん、白井義道さん

事故の後に生まれた有馬さんの子どもは今、18歳と15歳になった。有馬さんは「民事裁判の勝訴などで、みんなで基金を積み立て、そこからも費用を賄いました。1人、2人では本はできない。まだ記憶がしっかりと残っているうちにということで、多くの人が寄稿してくれました」と語る。

■社会病理浮き彫り

JR福知山線脱線事故の遺族代理人や信楽高原鉄道の遺族が結成した「鉄道安全推進会議(TASK)」の事務局長として活動した弁護団の佐藤健宗弁護士は「本を出す話は早くからあったのですが、立ち上がりかけたら福知山線の大事故が起きたりしてできなかった」と振り返る。

一方、「事故の再発防止は事故を風化させないことに尽きる」が口癖だった渡辺吉泰弁護士は、本の完成目前の6月に67歳で亡くなった。

「明石歩道橋事故 再発防止を願って~隠され得た真相 諦めなかった遺族たちと弁護団の戦いの記録」は神戸新聞総合出版センター(078・362・7138)まで

400ページの労作には現代日本社会の病理が浮き彫りになっている。

イベントをぶち上げるのが仕事と勘違いしている自治体。それでいながら主催者の明石市は警備会社に丸投げ。同社は前年大晦日のカウントダウンイベントの警備計画書の丸写し。人出は花火大会の3分の1程度だ。事故直後、茶髪の若者が橋を駆け回ったのが原因、とガセ情報を流し、新聞も飛びついた。「あの時、真相が隠されると直感しましたね」(下村さん)。

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遺族たちは子供を助けられなかった「自責の念」に苛まれた上、発生当時から「幼い子をそんなところに連れて行くからや、自業自得」などという中傷もあった。花火を見に行って圧死するなど誰も考えまい。

有馬さんは強調する。「私たちは事故が起きるまで普通の市民でしたが、事故で生活が一変してしまった。こうした事故は誰もが遭遇する可能性があるということ。安全に勝るものはないんです」と。

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