佐藤栄作首相が命じた「吉田国葬」野党はなぜ反対できなかったのか

1967年10月20日、吉田茂元首相の死を訪問先のマニラで知らされた当時の佐藤栄作首相は、園田直衆院副議長に電話で『国葬とすべし』と命じた。さらに、「野党の了解を取れば、閣議決定でやれる。そのためには社会党を説得しろ。公明と民社党はそれで納得する」。野党第一党だった社会党の山本幸一書記長と柳田秀一国対委員長はなぜ、了承したのか。当時、園田氏の秘書だった平野貞夫さん(87)が裏話を語ってくれた。(新聞うずみ火 矢野宏)

平野さんは、1967年6月に亡くなった社会党の大物議員が影響していると打ち明けた。その議員とは横路節雄衆院議員。のちに衆議院議長、北海道知事をつとめる横路孝弘氏の父親だ。

「横路議員の死で、長男の孝弘氏ら家族が議員宿舎を出なければならなくなった。園田氏は柳田氏から『弔慰金(約450万円)の範囲で住宅を世話してほしい』と依頼されたのです。住宅公団が石神井団地(東京都練馬区)を売り出していたが、一般抽選では数百倍の倍率だったため、建設大臣の記者用特別枠で購入できるよう取り計らった。その恩義から山本書記長、柳田国対委員長とも、園田氏の『吉田国葬』説得を断れなかったのです」

佐藤首相が園田氏に告げた「社会党を説得すれば、公明と民社党は納得する」との言葉通りになった。

「社会党が反対できなかったのはある議員の死が影響している」と話す平野さん

吉田元首相の国葬は、皇族を含む6500人が参列して東京・日本武道館で営まれた。

国葬当日の弔意について、政府は「国民に一律に喪に服させることはできない」との立場を取ったが、国民はかなり制約を受けたという。

政府は各省庁で①弔旗掲揚②黙とう③当日午後は公務に支障がない範囲で職員が勤務しないことを認めることなどを閣議了解した。

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学校や会社などにも哀悼の意を示すよう協力を要請した。国葬儀委員会は「それぞれの場所で1分間の黙とうをされることを期待します」と国民に呼びかけ、午後2時10分には街頭や駅のホームなどでサイレンが鳴らされ、黙とうを呼びかける放送が流された。

■佐藤元首相は国民葬

佐藤首相の強い意向で営まれた「吉田国葬」。平野さんは「吉田元首相は決して喜んでいないと思う」と切り出し、こう言い添える。「貞明皇太后の国葬を憲法上認めなかったのですから」

佐藤元首相が亡くなったのは1975年6月3日未明。74歳だった。当時の首相は三木武夫氏。平野さんは前尾繁三郎・衆院議長の秘書だった。

「吉田国葬」を命じた佐藤栄作元首相(1901-75)

「政府・自民党内で『国葬とすべき』との意見が出て、激論となりました。国会は与野党伯仲で、社会、共産、公明は早々に『国葬反対』を表明。三木首相は前尾議長に相談に来ました。吉国一郎・内閣法制局長官が『法制度がないので、国葬とするには立法、行政、司法三権の了承が必要』と言われたという。結局、三木内閣と自民党が合同で国民葬とすることになったのです」

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安倍元首相が参院選の街頭演説中に銃撃され、亡くなったのが7月8日。その6日後の14日に岸田首相は国葬を発表し、22日に閣議決定した。

また、「国葬」にかかる全体の費用の概算について、今年度予算の予備費から支出を決めているおよそ2億5000万円に、警備費や外国要人の接遇費など14億円余りを加え、総額で16億6000万円程度となる見通しを示した。

平野さんはこう批判する。「岸田首相は吉田国葬のいきさつを知らない。閣議決定によって国葬を行うなど、言語道断。国会に事前の説明もなく、憲法を冒涜した行為であり、立憲法治国を崩壊させることです」

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