ウクライナで泣きながら歩く子たちは「かつての私と同じ」 漫画家ちばてつやさんら6人が語る、第二次大戦で日本に起きたこと

母親(右)に手を振りながら号泣する少女(中央)を抱きかかえる姉=3月7日、ウクライナ・オデッサ(ロイター=共同)

 ロシアが今年2月、ウクライナに侵攻した後、多くの命が奪われ続けている。一方、日本では太平洋戦争の終戦から8月15日で77年が過ぎた。あの時代を知る漫画家や俳優ら6人に平和への思いを聞いた。(共同通信社会部)

あしたのジョーの絵を背景に、インタビューに答える漫画家のちばてつやさん=7月20日、東京都練馬区

▽旧満州から引き揚げた経験のある漫画家のちばてつやさん「ウクライナで泣いて歩く子、あの時の私と同じだ」
 今年の2月、心臓などの手術を受けた頃にロシアのウクライナ侵攻が始まった。病室でテレビを見ていて、全身麻酔が解けかけていたから幻覚じゃないかと思った。
 太平洋戦争が終わった1945年8月15日は、ミンミンとセミが鳴く暑い日だった。父の仕事で満州(現中国東北部)の奉天(現瀋陽)に住んでいて、まだ6歳。泥遊びをしていると、会社の事務所から真っ青な顔をした大人たちが出てきた。「日本が負けたらしい」と、その場に座り込んだり泣き出したりした人がいたけど「負けるって何?」と思った。高さ3メートルの塀の外では喜びの声が上がり、爆竹が鳴った。日本は他人の国に入り込んで勝手なことをやっていると、中国の人たちの反感が随分あった。
 その日から毎晩のように暴動が起き、会社の人たちとそこを離れて学校の床下や橋の下を転々とした。約300キロ離れた葫蘆島まで行けば日本に帰れるという話が入ってきたのは冬を過ぎてから。歩いて向かう途中、一緒にいたお年寄りや子どもがいなくなり、親に尋ねると「しっ!」と口をふさがれた。亡くなったか、中国人の家庭に預けられたか。弟たちは痩せて手足が割り箸のようになり、体中におできができた。みんなよく生きて帰れたと思うよ。
 葫蘆島の港に着いたのは1946年7月だった。そこでも食べ物を手に入れられず、出航を待つ間に多くの人が亡くなった。船でも一緒に歩いてきた友達が死んだ。内地に帰ったら手紙を交換しようと話していたのに。
 子どもだったから、戦争のことなんて分からなかった。意味も分からず家を追い出され、あっちこっち親についていっただけ。ウクライナで子どもが泣きながら歩いている映像を見ると、私たちと同じだと思う。あれから77年というのに、まだこんな子がいる。
 例え話になるけど、鳴門海峡に渦があるでしょ。私はね、戦争が渦に見える。地球上のあちこち、戦争をやっているところには渦がある。それに巻き込まれてしまったら、どんなに腕のある船頭がいても、どんなにエンジンをふかしても出られない。日本は今、際どいところに来ている。
 引き揚げの話だけれど、日本に帰ったらあれをしよう、これをしようと人それぞれの思いがあった。「愚かな戦争を繰り返さないよう、ちゃんと伝えてね」って、引き揚げる途中で亡くなったり、帰れなかったりした人たちに時々、後ろの方からささやかれるんだよ。
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 1939年東京都生まれ。代表作に「あしたのジョー」「紫電改のタカ」など。過去と現在の暮らしぶりを描く「ひねもすのたり日記」を連載中。

毒蝮三太夫さん(まむしプロダクション提供)=2020年7月撮影

▽東京で空襲の中、逃げ惑った俳優の毒蝮三太夫さん(86)「戦争はひきょうな殺人。俺たちの世代でもうたくさんだ」
 俺が空襲で経験したのと同じことがテレビ画面に映って、現実なのかと恐ろしくなった。着の身着のまま逃げたり、独りぼっちで泣いていたりするウクライナの人たち。人間は愚かだよ。まだ戦争を続けている。一日でも長引けば人が死ぬ。死ぬのは偉いやつじゃない。下っ端の人間や女性、子ども、年寄りだ。
 空襲で逃げ回ったのは77年前だが鮮明に覚えている。1945年5月24日の未明、東京・荏原区(現品川区)に住んでいた九つの頃だ。空襲警報が鳴って焼夷弾がばらばら落ちてくる。バケツリレーで水をかけるが火は消えない。もう逃げるしかなくなっておふくろと風上の方へ向かった。
 ものすごい熱風が吹き付けて息ができない。目も開けられない。「母ちゃん、こんなに苦しいんなら死んだ方がましだ」と叫ぶと、おふくろは「死ぬために逃げてんじゃないよ。生きるためだ」と言って、水中眼鏡を渡してくれた。少し楽になって、命だけは助かった。
 

空襲に遭う前の5歳の毒蝮三太夫さん(まむしプロダクション提供)=1941年、東京の明治神宮

 翌朝、焼け跡に子どもの革靴が落ちていた。拾うと、変に重い。片方に足首から先が入っていた。何も感じずに取り出して脇に置き、靴を履いた。爆風で飛ばされたであろうその子のことを考えたのは後になってから。極限状態で人間は狂う。
 8月15日の玉音放送は子どもには難しかったが、戦争が終わったことは分かった。これで空襲がなくなると喜んだ。
 戦後、テレビシリーズ「ウルトラマン」(1966年)に出演したが、生みの親の円谷英二さんが言っていた。「現実にはウルトラマンはいない。地球は地球人で守れ」って。今、地球を地球人が壊している。世界が一つの家族になって守らないといけないのに。お互いに許し合う気持ちが大事だ。
 戦争はひきょうな殺人。俺たちの世代でもうたくさんだ。戦争体験者は減っている。元気なうちは、いろいろなところで伝えたいと思っている。
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 どくまむし・さんだゆう 1936年生まれ。東京出身。俳優、タレント。毒舌でも人気のラジオ番組は50年以上続く。

沖縄戦について語るインタビューに答える英文学者の瀬名波栄喜さん=7月9日、那覇市

▽沖縄戦を生き延びた英文学者の瀬名波栄喜さん(93)「過去の悲惨な記憶を学ぶ歴史教育が、今こそ大切だ」
 ロシアのウクライナ侵攻のニュースを見ると、沖縄戦の光景と同じだと感じる。沖縄本島北部の久志村(現沖縄県名護市)で生まれ育ち、1944年に県立農林学校に入学した。まともに勉強できたのは3カ月ほど。米軍上陸に備え、日本軍の陣地構築に動員された。
 1945年3月に激しい空襲を受け、家族や親族と山に避難。沖縄戦が始まり、米兵の機銃掃射で亡くなる人々を目の当たりにした。家族らは投降したが、学校でたたき込まれた「生きて虜囚の辱めを受けず」との教えを守って独り山中に残った。だが炎に追われ米兵に囲まれた時、思わず両手を上げていた。6月23日に組織的戦闘は終わり、既に7月になっていた。
 海軍に召集された父は沖縄戦で亡くなったが、最期の場所すら分からない。山にこもった弟は栄養失調で命を落とした。動員された多くの学友は戦死し、自決した人も。「自分だけ生き延びた」という負い目は、言葉で表せるものではない。慰霊の活動は今も続けている。
 戦後は高校に入り直し、教師になった。沖縄が米統治下だった時代。米兵による事件・事故が相次ぎ、米軍基地建設のために民間人の土地がブルドーザーで接収される場面も目撃した。
 勉強では負けるものかと、1957年から米国に留学し英文学を学んだ。現地では学生に「僕の父は君たちに殺された」と言われ「僕だってそうだ。戦争で国と国が争い、勝ち負けがついたが、個人同士が同じことを繰り返して憎み合う必要はない」と返した。
 国家間の問題は外交で解決するべきで、敵にも味方にも大きな損失を出す戦争は繰り返してはいけない。過去の悲惨な記憶を学ぶ歴史教育が、今こそ大切だ。沖縄の前身だった琉球王国はかつて、各国の架け橋となる「万国津梁」の精神を掲げた。その思いで歴史を見詰め直すことが、平和の構築につながると信じている。
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 せなは・えいき 1928年沖縄県生まれ。琉球大名誉教授、名桜大名誉学長。

戦時中の性暴力について語る岡山大名誉教授の石田米子さん=7月15日、東京都港区

▽旧日本軍による性暴力の実態を調査した石田米子さん(87)「戦争は兵士の人間性を奪う」
 ロシアによるウクライナ侵攻で、住民への性暴力が報告されている。私が真っ先に思い浮かんだのは、日中戦争で日本軍の兵士から受けた性暴力を、震える声で証言してくれた中国のおばあちゃんたち。性暴力は被害者もその周囲にも「恥」との意識が強く、表に出づらい。国際社会は実態把握に努め、被害者が尊厳を取り戻せるよう支援する必要がある。
 私たちの研究グループは1940年ごろから日本軍が侵略した中国山西省の農村を1996年に初めて訪ね、被害者に聞き取り調査をした。共産党員のため拷問を受け、乱暴された後に真冬の川に捨てられた人。兵士に連行されて繰り返し暴行を受け、子どもを産めない体になった人。当時10~20代の女性が、恐怖と屈辱に満ちた被害とその後の苦難を明かした。
 この女性ら10人は1998年、日本政府に謝罪と損害賠償を求める訴訟を起こした。東京地裁判決は「著しく常軌を逸した卑劣な蛮行」と被害事実を認めたが、旧憲法下の国家行為は賠償責任を問われないとして請求を棄却。2005年に最高裁で敗訴が確定した。
 日本政府の加害責任を明らかにすることで名誉回復を願った原告は落胆した。原告の万愛花さんは2013年に亡くなる直前、病床で私の手を握り「絶対に闘いを放棄しないで」と訴えた。あの強い目力が忘れられない。
 元日本兵で日中戦争時の加害行為を証言し続けた三重県桑名市の故近藤一さんは、性暴力や虐殺に加担したとし「こんな人間になってしまった」と涙していた。戦場での性暴力を「男の本能」と容認する人がいるが、それは男性への侮辱だ。兵士は殺し合いをする戦争で人間らしい心を失い、嗜虐的な行為に走る。
 ロシア軍兵士による性暴力も背景は同様だろう。戦争は本来その人が持つ人間性を奪う。ウクライナで起きている被害も加害も自分の身に引きつけて、歴史を直視し、戦争の悲惨さを考える契機としたい。
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 いしだ・よねこ 1935年東京都生まれ。岡山大名誉教授。専門は中国近現代史。

旧ソ連占領下の北方領土・択捉島での生活について語る長谷川ヨイさん=6月24日、北海道根室市

▽旧ソ連占領下の北方領土・択捉島で暮らした長谷川ヨイさん(90)「為政者には奪うものの重さをよく考えてほしい」
 父は北方領土・択捉島のコンブ漁師。南部の入里節で生まれ育った。島は食べ物が豊富で、特にコンブは内地に送る高級品。漁が盛んな夏は季節労働者が大勢やってきて、にぎやかな暮らしだった。貴重なタンパク源としてトドを食べる文化があり、繁殖で陸に上がってくると、父や兄が木の棒を手に海岸へ駆けていった姿を覚えている。
 そんなのどかな暮らしは1945年8月のソ連による侵攻で一変した。入里節は敵の上陸地の一つとなり、昼間から港の方で銃声が聞こえるようになった。家で身を潜めながら「こっちに来るな」と必死に祈った。幸い大きな戦闘はなかったが、安全のためしばらくは自由に外出できず、備蓄の食べ物で生活した。
 侵攻直後のソ連兵は野蛮で、集団で家に押しかけて姉を連れ去ろうとしたことがあった。銃で脅されたが、父が「俺を殺してから連れて行け」と抵抗すると、ばつが悪くなったのか、笑みを浮かべて引き下がった。
 その後は弟が家の屋根に上って見張り役になった。ソ連兵が近づくと、天井をたたくのが合図。音がすると、姉と私は一目散に裏手の芋畑や沢に逃げた。おっかなくて、家にいたって休めやしない。姉は疲弊し、すぐ嫁に行った。今でも戸をたたく音がすると、つい天井を見上げてしまう。
 1946年夏に引き揚げを命じられ、父の実家がある青森に向かった。手荷物しかない上、栄養状態も悪く、同級生には「貧乏」「汚い」といじめられた。あの時が一番つらく、島にいた方がましとさえ思った。ただ子ども一人で出て行く当てはない。耐えるしかなかった。
 ソ連の継承国であるロシアが今年2月、ウクライナに侵攻した。逃げ惑う子どもの様子をテレビで見ると悲しくなる。巻き添えになるのはいつだって女と子ども。戦争では故郷を追われ、尊厳を踏みにじられる人がいる。為政者には奪うものの重さをよく考えてほしい。
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 はせがわ・よい 1932年択捉島生まれ。「千島歯舞諸島居住者連盟」根室支部員。島の経験を語り継ぐ活動を行う。

「沖縄戦の図」の前で、インタビューに答える佐喜真美術館館長の佐喜真道夫さん=7月15日、沖縄県宜野湾市

▽沖縄県宜野湾市の佐喜真美術館館長の佐喜真道夫さん(76)「『こわい絵』の向こう側に真実の力」
 30代のとき、連作絵画「原爆の図」で知られる画家の故丸木位里・俊夫妻と出会った。講演会で俊さんが「日本政府が沖縄にしてきたひどいことを、本土の人間として謝らなければならない」と謝罪したことに驚いた。学生時代に東京で沖縄差別に遭い、沖縄戦の悲惨さを伝えても「本土も空襲があった。被害者面するな」と言われ、悔しい思いをしてきたからだ。その後交流が始まった。
 夫妻は多くの体験者の証言に耳を傾け、研究者の調査を学び「沖縄戦の図」を完成させた。だが沖縄で所蔵できる施設は見つからず、私がつくるしかないと決意した。
 私は米軍に接収され、普天間飛行場の一部となっていた先祖代々の土地を継ぐ軍用地主だった。米軍側に交渉して返還してもらい、飛行場に食い込んだような土地に美術館を建てた。

 住民が逃げ込んだガマ(自然壕)をイメージした建物の奥に、沖縄戦の図を展示した。本土防衛の「捨て石」にされ、皇民化教育の末に集団自決に追い込まれた姿。戦後の日本があいまいにしてきた問題に直面させる「真実の力」がある。
 ロシアのウクライナ侵攻後は、絵の中の人々と、ニュースに映る子どもを抱いて逃げる母とを重ね合わせる人が増えた。「命どぅ宝(命こそ大切)」という哲学は沖縄戦から広がった。日本がすべきは軍事支援ではなく、母子の支援だ。
 「こわいをしって、へいわがわかった」。絵を見た小学生が作り、今年の沖縄慰霊の日の式典で朗読した詩だ。夫妻が「みんなで描いた」と言った絵には「子孫を戦争に巻き込むことを許さんぞ」という思いが溶け込んでいる。「こわい絵」の向こう側の真実を小学生は感じ取ったのだろう。
 絵の中央には、群集心理に陥った人々を静かに見詰める少年がいる。事実を大切にした絵を「うそ」とし「反日的」だと言う人もいる。だが過去を内省できなければ、戦争はまた起きる。

佐喜真美術館の屋上から米軍普天間飛行場を指さす佐喜真道夫さん=7月15日、沖縄県宜野湾市

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 さきま・みちお 1946年、沖縄出身の両親が疎開していた熊本県で生まれる。関東での鍼灸院開業を経て、1994年に佐喜真美術館を開館。
(取材・執筆は三吉聖悟、金子美保、兼次亜衣子、岩井美郷、森山遼、大湊理沙)

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