アーセナルで長年指揮を取っていた名将アーセン・ヴェンゲル氏。22年で多くの無名選手を発掘して育て上げたことで知られる。
しかし一方でそうならなかった選手たちも。今回は『Planet Football』から「ヴェンゲル監督の掘り出し物じゃなかった補強」をご紹介する。
アモリ・ビショフ
ビショフがアーセナルにやってきたのは2008年夏。『Bleacher Report』は、「ヴェンゲルはまたもや将来我々が絶賛する選手になるかもしれない無名の若者と契約した」と報じていた。
ヴェルダー・ブレーメンからの加入が遅れ、さらにビショフが2回の鼠径部手術を行ったとき、誰もが警告であると感じた。そしてヴェンゲル自身も「これはギャンブルだ」とコメントした。
わずか1年で退団することが決まり、彼は4回の途中出場だけで終わった。それからのキャリアの大半をドイツの下部リーグで過ごすことになったが、ビショフは今でもヴェンゲルと連絡を取り合っているという。彼にとっては悪くない記憶の一つになっているようだ。
ジュアン
アーセナルでプレーしたブラジル人のランキングにすら入らないことも多いジュアン。2001年にサンパウロから獲得された左サイドバックは、2回カップ戦でプレーしたあとに前十字靭帯を断裂し、そのまま離脱した。
回復した後にはミルウォールにローン移籍し、そして2004年にはブラジルへと戻っていった。その後はフルミネンセとフラメンゴでレギュラーを務め、2008年にはブラジル代表でもデビューしている。
アルベルト・メンデス
ニコラ・アネルカやマルク・オフェルマルス、エマニュエル・プティと同じ夏に加入したアルベルト・メンデス。ドイツの5部リーグを戦っていた1.SCフォイヒトでプレーしていたところ、ヴェンゲル監督に見出されてアーセナルへとやってきた。
それは誰にとっても驚きであった。アルベルト・メンデス自身にとってもそうだったとのことで、「試合の翌朝にコーチから電話があって、ヴェンゲルが獲得したいと言っていると。酔っ払っているんじゃないかと言ったよ」と後に話していた。
また「ヴェンゲルと会ったときも『理解できない』と言った」とのこと。アーセナルでの5シーズンで11回しかプレーできなかったが、バーミンガム戦ではゴールを決めている。
エフスタティオス・タヴラリディス
2001年にイラクリスから獲得されたギリシャ人センターバックのタヴラリディス。当時はまだ21歳だった。ソル・キャンベルやマーティン・キーオン、トニー・アダムスらがいる最終ラインに組み込まれた。
彼はアーセナルでわずか8回のプレーで、そのうち7回がリーグカップでのもの。イングランドでは活躍できなかったものの、その後リールやサンテティエンヌでレギュラーを務め、リーグアンで実績を残した。
ステファン・マルツ
アーセナルでのデビュー戦でゴールを決めた数少ない選手の一人であるマルツ。14試合に出場して2得点。1999年の夏に1860ミュンヘンから獲得された65万ポンドのミッドフィルダーだった。
加入から2年後にカイザースラウテルンへと売却されることになったあと、ドイツでは度重なる怪我に苦しめられ、4シーズンでわずか33回しか出場できず、監督とも衝突してしまう。それからはアマチュアとしてプレーし、最後は11部リーグで25歳にしてキャリアを終えている。
カバ・ディアワラ
アーセナル、マルセイユ、そしてパリ・サンジェルマン。そのキャリアを見れば、彼が優秀な血統を持っているストライカーであることはわかる。
しかしアーセナルとマルセイユではそれぞれわずか半年間しか所属しておらず、パリ・サンジェルマンでは3年間で4回のローン移籍を経験しており、不遇の時代を過ごしていた。キャリアの終盤には数々の国を渡り歩くジャーニーマンにもなった。
引退後は解説者を務めていたが、昨年ギニア代表の監督に就任している。
トマシュ・ダニレヴィシウス
現在リトアニアサッカー連盟の会長を務めているダニレヴィシウス。2000年のプレシーズンでバルセロナを相手に行われた親善試合で、練習生としてプレーしながらゴールを決めた。
そしてサンダーランド戦でティエリ・アンリと交代してピッチに出るというデビューを経験するも、その後の出場は2回のみ。半年後にはダンファームリンへと貸し出されることになり、その後は様々な国を渡り歩くジャーニーマンになった。