ビートルズ デビュー60周年!ポップス全盛期に突如現れたロックンロールの衝撃  新鮮に感じたのは、自分たちで演奏して歌う4ピースバンドというスタイル

英国リリースから遅れること2年。日本で発表されたビートルズ「ラブ・ミー・ドゥ」

1962年10月5日、ビートルズのデビュー曲「ラブ・ミー・ドゥ」がイギリスで発売された。ちなみにこの曲がアメリカで発売されたのは1964年4月、日本で発表されたのは1964年5月のこと。この曲はアメリカでも日本でもファーストシングルにはなっていない。

この時間差にも、ビートルズがどのように世界でブレイクしていったかの興味深いエピソードがあるのだが、すでにご存じの方も多いだろうし、文章量としてもかなり長くなってしまうので省略させてもらう。

とにかくビートルズに関しては優れた研究者も多く、膨大な書籍や記事、さらにはデモやレコーディング過程の音源までもが発表されており。ある意味すでに語りつくされているアーティストと言えるだろう。

だから、ここではかなり個人的な話になるけれど、ささやかではあるけれどリアルタイムでビートルズ・ヒストリーに触れた世代の一人として感じたことを振り返ってみたい。

スウィート・ポップス全盛の時代に突如登場したビートルズ

僕がビートルズを知ったのは1963年だったと思う。奇妙なヘアスタイルのイギリスの若い音楽グループがアメリカで大騒ぎになっている、とファンの熱狂ぶりがテレビニュースで紹介されたのを見た記憶がある。

当時、僕は中学3年生で、まさに映画や音楽に目覚めていった時期だった。映画館にも一人で行けるようになり、『ウエストサイド物語』(1961年)、『アラビアのロレンス』(1962年)『シェルブールの雨傘』(1963年)などの新しい感覚の映画に眼を奪われた。

学校帰りにレコード店にも寄るようになったが、頻繁にレコードを買うお金は無いので、店頭で流れる新曲を聴いたり、顔なじみになった店員さんに試聴させてもらったりした。

1950年代のロックンロール・ムーブメントには年代的に間に合わなかった。バディ・ホリーやエディ・コクランはすでにこの世を去っていたし、エルヴィス・プレスリーも兵役を終えて、映画で “良きアメリカ青年” になった姿を観るだけだった。

若い世代の “反抗” の音楽だったロックンロールは牙を抜かれて甘ったるい “ボーイ・ミーツ・ガール” スタイルのティーンネイジ・ポップスへと変身し、コニー・フランシス、ジョニー・ティロットソンなどのアイドルシンガーがヒットチャートを賑わしていた。

日本でも、これらのアメリカン・ティーンネイジ・ポップスは、坂本九、弘田三枝子、中尾ミエらよる日本語カバーでヒットし、『ザ・ヒットパレード』『シャボン玉ホリデー』などのテレビ番組を彩った。

そんな “スウィート・ポップス” 全盛の時代に突如登場したビートルズの音楽は衝撃だった。

新鮮だった、自分たちで演奏して歌う4ピースバンド

最初に聴いたのは、アメリカでのデビュー曲「プリーズ・プリーズ・ミー」だったと思う。ラジオから、荒削りで尖ったサウンドと叫ぶようなヴォーカルがストレートなビートが飛び出してきて、それまで耳に馴染んでいた洗練された “スウィート・ポップス” とはまったく異質な音楽だと感じられた。

「こんなサウンド聴いたことがない」という強い違和感と同時に、理屈抜きの力強さに惹かれもした。ここから新しいものが始まるんじゃないかという感覚が確かにあった。

当時は、今と違って新しい音楽情報を得る手段はほとんど無かったけれど、ビートルズの動向は注意して追いかけるようになり、映画『ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!』(1964年)も観たし、少し遅れて日本で放映された『エド・サリヴァン・ショー』(ビートルズがアメリカで初めて出演したテレビ番組)も観た。

もちろんアルバム『ビートルズ!』(1964年)も夢中で聴いたけれど、当時はこれがイギリス盤ともアメリカ盤とも違う、日本独自編集盤だということも知らなかった。なお、セカンドアルバム『ビートルズNo.2』も日本独自編集盤で、サードアルバム『ビートルズがやってくるヤァ!ヤァ!ヤァ!(ア・ハードディズ・ナイト)』からはイギリス盤と同じ内容となる。

たぶんビートルズと出会った同世代の多くの人が同じことを感じただろうと思うけれど、ビートルズは、それまで自分が知っていたポップミュージックの枠から飛び出たまったく新しいコンセプトのグループに見えた。

なにより、それまで普通だと思っていた歌手とバックバンドという形ではなく、自分たちで演奏して歌う4ピースバンドというスタイル自体が新鮮だった。同じ時期に脚光を浴びたベンチャーズもバンドの魅力を伝えてくれたグループだったけれど彼らはインストゥルメンタルグループだったから、なんとなくビートルズの方が高度なことをやっていそうだ、というイメージもあった(もちろん後でベンチャーズの凄さも知るのだが)。

しかも、ビートルズは、レパートリーも作家に提供された曲ではなく自分たちで作詞・作曲する、というのもカッコよく見えた。

アメリカの50年代サウンドに魅了された不良少年たち

当時、日本でも「高校三年生」(舟木一夫、1963年)、「いつでも夢を」(橋幸夫・吉永小百合、1963年)など “青春歌謡” と呼ばれる若者向けの曲が流行ったが、それはあくまで、既成の歌謡曲作家が若い世代をターゲットに書いた曲に過ぎなかった。

そしてその構造は、アメリカから届けられる “ティーンネイジ・ポップス” でも同じだった。

しかし、ビートルズ、そしてその後に次々と紹介されていったイギリスのグループたちは。大人に“やらされる”のではなく、自分たちの想いを自分たちが主体的に表現しているように見えたし、若い世代の情熱と自由への主張が感じられた。

僕も含めて当時の若者の多くは、そんなビートルズを中心としたムーブメントを、突然現れたまったく新しく創造されたものだと受け取っていた。

けれど、実はそうではなかったということも、ビートルズの功績を振り返る時に大切なポイントだ。

ロックンロールが生まれたのは1950年代のアメリカだった。エルヴィス・プレスリーなどのワイルドでエネルギッシュな音楽は一世を風靡する。しかし、そこに色濃く感じられる不良性や反抗精神の匂いを危惧した大人たちは、ロックンロールを反社会的音楽として駆逐しようとする。そして60年代に入るころには最初にも触れたような、毒気を抜かれ甘さだけを残した “ティーンネイジ・ポップス” へと変形していた。

しかし、イギリスでは事情が違っていた。米軍基地や貿易港などを通じて手に入れた1950年代のロックンロールやブルースなどの黒人音楽のレコードに魅せられ、そのカヴァーをする若者たちが各地に現れたのだ。

ビートルズもそのひとつで、港湾都市リバプールでアメリカの50年代サウンドに魅了された不良少年たちが結成したバンドだった。

だから、ある意味でビートルズは、新しい音楽をもたらしたのではなく、60年代初頭には顧みられなくなっていたロックンロールを不良性とともに蘇らせたグループだったのだ。

ルーツはロックンロールやブラックミュージック

ビートルズと言うと、やはりレノン=マッカートニーを中心としたオリジナル曲のイメージが強い。けれど、初期の彼らのレパートリーにはカバー曲がかなり多い。それも「ロール・オーバー・ベートーヴェン」(チャック・ベリー)、「ワーズ・オブ・ラヴ」(バディ・ホリー)といった王道ロックンロールから「プリーズ・ミスター・ポストマン」(マーヴェレッツ)のようなガールグループ・ナンバー、「ユー・リアリー・ゴッタ・ホールド・オン・ミー」(ミラクルズ)などのモータウンもの、さらには「蜜の味」のようなスタンダード曲など、その選曲は幅広い。

こうしたカバー曲については、ビートルズのバージョンを初めて聴き、その後オリジナルアーティストを知ったという人も少なくないハズだ。

ビートルズはカバーアーティストでもあった。しかも、その中心となっていたのは50~60年代のロックンロールやブラックミュージックのナンバーだった。さらに、彼ら自身のオリジナル曲も、そうしたルーツミュージックの影響を強く受けていた。

その意味で、ビートルズを筆頭とする当時のブリティッシュグループは、アメリカが忘れようとしていた50年代のロックンロール・ムーブメントの系譜を受け継いで、1960年代の世界にそのスピリットを送り届けたことになる。この音楽のヒストリーを繋いだ功績は高く評価されていいと思う。

ビートルズの世界的ブレイク、そしてブリティッシュビート・グループの台頭に刺激された大人たちは、第二、第三のビートルズを世に送りだそうと躍起になった。モンキーズもそうして生まれたグループだったし、日本でも東京ビートルズ(1964年)などビートルズ曲を日本語で歌うグループをデビューさせたり、さらにはグループサウンズ(GS)のムーブメントにもつながっていく。

そうした表層的なカバー現象もあちこちであったけれど、当時の世界中の子どもたちがビートルズから受けた最大の影響は、彼らの音楽に向かう姿勢にあったと思う。

「彼らのように、自分たちで好きに曲をつくって、自分たちで演奏してもいいんだ」ということに気づいた世界中の若者が、自ら楽器を手にして音楽活動を始めていった。

そして、そんなビートルズの姿勢を受け継いだ世界各地の若い音楽家たちが、それぞれのオリジナリティを発揮しながら、自分たちのイニシアティブで次の時代の音楽ムーブメントを生み出していった。

もちろん、ビートルズが残した楽曲そのものも、今も色褪せない魅力にあふれている。しかしそれ以上に、「音楽は必ずしも本格的音楽教育を受けた専門家だけのものではない。アマチュアリズムから出発して、自由に自分の想いを表現し、自分たちなりのスタイルで発展させていっていいのだ」ということを自分たちの姿勢、そしてキャリアで示し、音楽表現の可能性を大きく広げていった。ということこそ彼らの大きな功績なのではないかと思う。

カタリベ: 前田祥丈

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