<南風>ケーキ1個の記憶

 東京での司法試験浪人時代、受験勉強につまずいていた私はアルバイトも精神的にままならず、どこか漫然と1人暮らしを続けていた。

 ある日の図書館帰り、近所の洋菓子店でどうしてもケーキを買いたくなった。ドアを開けると小さなショーケースに何種類かのケーキが並び、その後ろにコック姿のご高齢の男性が立っていた。

 予算の関係上、許される購買数は1個であったから、真剣に考え、シュー皮で白鳥をかたどり生クリームがたっぷり入った「スワン」というケーキを選んだ。

 店のご主人に「すみません、スワンを1個ください」と声をかけると、ご主人は「…1個?」と静かにのたまった。

 聞こえづらかったかなと思い、やや声を張って「1個です」と答えると、「1個?」という答えがまた返ってくる、ということを3セットほど繰り返してやっと、ご主人は静かにスワンを箱に詰め始めた。が、長い。たった1個のケーキを箱詰めするには時間がかかりすぎている。

 辛抱強く待ちやっと手元に来た箱を携え足早に部屋に帰り、箱を開けた瞬間、わが目を疑った。そこにはただのシュークリームがあった。スワンのかれんな首は根元から折られ、羽根の間のクリームに深々と突き刺さっていた。

 たった1個のスワンをうまく詰められるサイズの箱なんてお店にはなかったのだと気づいた。それでも白鳥の成れの果てはおいしく、クリームの甘さに慰められた。

 街角の小さな洋菓子店を見ると、将来も自分自身も見えなくなりかけていたあの頃と、それでもささやかな楽しみを見つけようとしていた自分、そして1個のスワンの箱詰めに悪戦苦闘していたご主人の後ろ姿を思い出すのである。(林千賀子、弁護士)

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