家族全員の体調がなぜか急に悪化、原因は地中深くのコンクリ詰めの中に…旧日本軍による毒ガス兵器が、21世紀の若者に重い障害を負わせた

中国吉林省のハルバ嶺で見つかり、回収された旧日本軍の遺棄化学兵器=1996年5月(日本政府調査団提供・共同)

 2001年10月、青塚慎一さんは家族4人で茨城県神栖市木崎の一戸建て借家に引っ越してきた。住宅街はサッカーJ1の鹿島アントラーズの本拠地から車で約30分、周囲には畑も残る。しかし、転居直後から全員の体に原因不明の変調が現れ始めた。手の震えやめまい、ふらつきなどの神経症状が止まらない。特にひどかったのはまだ乳児だった長男の琉時さん。母の美幸さんによると、頻繁にけいれんに襲われ、医師から「一生歩けないかもしれない」と通告された。21歳になった今も、精神の発達の遅れなど重い障害が残る。
 国は最終的に、旧日本軍の毒ガス兵器の原料が原因と判断。半世紀以上も前につくられたものが、21世紀になって若者の未来への自立を奪った。しかも毒ガス兵器の爪痕はこの地域だけにとどまらなかった。(共同通信=辰巳知二)

青塚美幸さん(右)と琉時さん=茨城県神栖市

 ▽「井戸水が疑わしい」
 琉時さんは医師の言葉どおり、1歳になっても歩行できなかった。1歳8カ月の時に入院した際、つかまり立ちができるようになって両親を驚かせた。 
 琉時さんの姉、梨奈さんも含めた家族3人も、さまざまな神経症状が出たが、どの医療関係者も原因を究明できなかった。周辺でも同様の神経症状を訴える住民が相次ぎ、動揺が広がった。
 

水質基準の450倍のヒ素が検出された井戸周辺の地中をレーダー探索する技師ら=2003年5月、茨城県神栖町(現神栖市)

 2003年3月、青塚さん一家に「井戸から毒が出た」との連絡が入った。行政の水質調査で、家族が飲み水として使っている井戸水から水質環境基準の450倍のヒ素が検出されたのだ。筑波大病院の医師が、診察した住民を通じて保健所に井戸水の調査を依頼したことが原因究明のきっかけだった。
 琉時さんは井戸水で溶いたミルクを飲んでいた。入院した際につかまり立ちができたのは、井戸水を飲まなくなったからだろう、と美幸さんは話す。 

 解析の結果、「毒」は有機ヒ素化合物で、自然界には存在しないジフェニルアルシン酸と判明。さらにその後の調査で、ジフェニルアルシン酸は、青塚さん宅から約90メートル離れた空き地の地中に、コンクリートで固めて埋められていたことが分かった。このコンクリートからは1993年製造と刻印された飲料の空き缶も見つかっている。つまり、埋められたのは少なくともこの年より後ということになる。ジフェニルアルシン酸が時間をかけて地中に漏れ出し、地下水を伝って井戸水に混入した可能性が高い。 

地下約2㍍から掘り出されたコンクリート状の塊=2005年1月、茨城県神栖町(現神栖市)(環境省提供)

 茨城県は、被害認定した住人に医療手帳を交付。治療費を支給するなどの措置を取った。医療手帳の対象者は約150人に上る。国の公害等調整委員会は2012年、茨城県の責任を正式に認める裁定を下し、住人一人一人の損害額なども示した。
 この裁定は、もう一つ重要な判断も示している。原因物質のジフェニルアルシン酸について、戦後に製造された形跡がないことなどから、旧陸軍の嘔吐性毒ガス兵器「あか剤」(ジフェニルシアンアルシン)の原料と認定したのだ。戦時中に製造された毒ガス兵器の原料が、21世紀に若者を襲っていた。
 美幸さんは、「(琉時さんが)自己抑制を失うパニック症状に頻繁に襲われます」と語る。2021年9月には、琉時さんが自宅キッチンで包丁を手に「俺は水のせいで病気になった。死にたい」と叫んだ。通報で警官も駆け付け、最後は美幸さんが体を張って押さえ込んだという。
 美幸さんは「突然、2階の網戸を突き破りベランダから飛び降りたりもした。鹿島の海で何度、琉時と心中しようかと考えたことか」と打ち明け、こう語った。 「戦争さえしなければこんな目に遭わなかったのに」

 ところでこの毒ガス兵器は、なぜここにあったのだろうか。国の調査では判明しなかった。私は、旧陸軍の毒ガス兵器を製造していた、広島県竹原市忠海の大久野島の関係者を訪ねた。

広島・大久野島=1997年11月

 ▽神栖の被害を憂慮しながら亡くなった医師
 広島県竹原市忠海沖の瀬戸内海は、島々の緑の稜線が幾重にも織りなす風光明媚な景勝地。周囲4キロの大久野島は休暇村のある人気リゾートだが、かつては旧陸軍が1930年ごろから終戦間際まで化学兵器を極秘裏に製造した「毒ガス島」だ。大久野島にあった秘密工場は、毒ガスの使用が1925年制定の国際法で禁止される中、日本が重点を置いた当時の最先端施設だった。
 大久野島を見渡せる陸側の一角に、国家公務員共済組合連合会・忠海病院(現在は呉共済病院忠海分院)がある。元院長の行武正刀医師は毒ガス臨床治療の第一人者だ。戦時中に大久野島で働いていた工員らは戦後、がんや呼吸器疾患といった後遺症に襲われ、障害が残ったのは約6800人とされる。うち4千人余りを行武医師が診察した。
 忠海病院では戦後長らく、「ガスやけ」と呼ばれ皮膚が黒ずんだ元工員らが通路にもあふれ、激しくせき込む声が響いていたという。

広島県・大久野島の旧陸軍毒ガス工場で、毒ガスの廃棄処理をする作業員=1946年

 行武医師は、根治療法がない後遺症の恐怖を知り尽くすだけに茨城県神栖市での被害を人一倍憂慮していた。私が最後に会った2008年秋、「神栖の“毒ガス”は大久野島から運ばれたのかもしれない」と語っていた。だが翌年3月、急速に悪化した肺がんでこの世を去り、神栖を訪れることはなかった。
 私は今年8月、広島県三原市に住む行武医師の長女の則子さんを訪ねた。則子さんによると、行武医師は診察の際、カルテの余白に工員らが語った勤務内容や労働環境などを書き留めていたという。
 戦時中はかん口令が敷かれ、工員らは島の全体像を知らされていなかった。当時の上層部は、戦後も一貫して沈黙を続けた。行武医師は、関係者の断片的な生の言葉を通じて「島の実態をより浮き彫りにし後世のために残したい」と晩年、カルテのメモを著作「一人ひとりの大久野島」にまとめた。
 編集を手伝った則子さんは、行武医師が毒ガス治療で得た「世界的視点」に突き動かされていたと語る。1980年代のイラン・イラク戦争ではイラク軍の毒ガス攻撃を憂慮し被害者の医療支援で現地に通った。行武医師が神栖の被害にも思いをはせたのは「世界的視点」の延長線上にあったのかもしれない。
 行武医師の憂慮は、毒ガスによる凄惨な被害を目の当たりにしても、なお被害を食い止められない人間の愚かさに対する嘆きだったように思える。則子さんは、父を代弁するかのように言った。
 「被害の連鎖を断ち切らなくてはならない」

イラン有志から贈られた故行武正刀医師への感謝パネルの前に立つ長女の則子さん=8月、広島県三原市

 ▽国内30カ所以上で発見、ずさんな遺棄
 神栖の被害原因となったジフェニルアルシン酸が大久野島で保管されたものだったかどうかは、結局、分からないままだ。戦後の混乱期に廃品業者に流れ、最終的に神栖に運ばれたとの見方もあるが、真相は闇の中にある。
 ただ、旧日本軍が製造した大量の毒ガス兵器は、中国で一部が実戦使用されたほかは、中国と日本で遺棄、廃棄された。日本政府によると、戦後に見つかった毒ガス兵器は、日本国内では北海道から九州まで30カ所以上。中国でも40カ所以上で見つかっている。
 中国軍の研究書の記載によると、旧日本軍は日中戦争で少なくとも2091回の毒ガス戦を行い、8万人以上が死傷した。毒ガス兵器を旧日本軍が重視したのは、当時のソ連との戦争準備のためだ。その後、日中戦争の泥沼化に伴って増産し、日本各地にも備蓄した。そして敗戦の混乱の中、ずさんな形で遺棄や廃棄を行い、戦後の被害拡大を招いた。

 

旧日本軍が中国に遺棄した毒ガス兵器による激しい後遺症に苦しむ仲江さん=2018年、中国黒竜江省牡丹江市(共同)

 ▽「毒ガスを浴び、人生が終わった」
 中国黒竜江省牡丹江市に住む仲江さん(61)は1982年、現場管理をしていた道路の拡張工事中、作業員が掘り出した鉄製容器に入った旧日本軍の致死性毒ガス「イペリット」を浴び、瀕死の重症を負った。
 入退院を繰り返したため仕事を続けられず、妻子も仲さんの元を去った。今も重い後遺症に苦しみ「毒ガスを浴び、人生が終わった」と悲嘆に暮れた。 

 仲さんら中国人被害者に対する日本政府の医療ケアは、基本的にはない。50人を超える中国人被害者らは日本政府を相手に相次いで損害賠償訴訟を起こしたが、日本の裁判所は最終的に政府側の法的責任を認めず、被害者は敗訴した。
 しかし、被害者への冷ややかな対応とは対照的に、中国政府と共同で実施する遺棄毒ガス兵器の処理には、多額の資金を拠出している。戦後、中国側が毒ガス兵器を集めて埋めた吉林省・ハルバ嶺の推定埋設量について、日本政府は2005年、30万~40万発と申告。その後、データ分析などから10数万発と修正したが、国際機関への申告量は変更していない。日本政府は中国での処理作業を化学兵器禁止条約の義務と位置づけ、2020年度までに計3847億円もの巨額予算を執行した。今後、処理を加速する方針としている。
 中国人被害者は納得がいかない。「予算のほんの一部でも医療ケアに回してほしい」
 医療ケアを求める声を受け、日本人弁護士らは支援に乗り出している。NPO法人「日中未来平和基金」を2016年に発足させ、医師らと協力して被害者検診を行い、薬代の援助金として毎年千元(約2万円)を渡す活動を開始。カンパを募り、支援の拡充を図っている。

中国人の毒ガス被害者との交流を語る、青塚琉時さんの姉梨奈さん=9月、茨城県神栖市

 ▽「自分も被害にあったからこそ、弟を救いたい」
 中国人の被害は、神栖で被害を受けた青塚琉時さんの姉、梨奈さん(27)にとっても他人事ではない。「小学生の時、弁護士さんに連れられて中国で毒ガスの被害を受けた同世代の子どもが自宅に泊まり、お互いの言葉を学び合った」と振り返る。神栖では自分も障害を負ったが、克服。当時の思い出も励みにし、今では2児の母となっている。
 梨奈さんは、障害が重くて自立が見込めない弟を生涯にわたってケアできるよう、自立支援施設設立のためにNPO法人を立ち上げたいと考えている。「自分も被害にあったからこそ、弟を救いたいと思うようになった」と力強く話した。

質問に答える「語り部」村上初一さん(右端)=2005年、広島県・大久野島

 ▽毒ガスはかつて人道兵器と教えられていた
 大久野島には現在、毒ガス資料館がある。1988年オープンで、初代館長は村上初一さん(故人)。1925年生まれの村上さんは、1940年に大久野島にあった毒ガス製造のための技能者養成所に入った。
 生前に取材した際、村上さんは養成所の兵器学の授業で、毒ガス兵器が「人道兵器」だと教え込まれていたことを明かした。
 「敵の中枢機関を襲撃し、最も効果があり、せん滅的打撃を与えるものは化学兵器(毒ガス兵器)にまさるものはない。他の兵器に比べ傷害時の苦痛度、人体損傷の永久性や負傷者の死亡率は少ないから人道的で近代的兵器である」
 だから1945年8月15日に敗戦を知った時は、こう思ったという。 「毒ガスが間に合わなかったのか。残念だと思った」
 戦後は竹原市役所に勤務後、資料館の初代館長に就任した。ところが、館長になって間もないころ、見学に訪れた小学生から「どうして毒ガスをつくったの」と質問され、言葉に窮した。
 「毒ガス資料館は二度と戦争の惨禍を繰り返さないため平和を訴える場所。ならば中国などに大きな被害をもたらした、残虐な殺りく兵器である毒ガスの加害面も伝えなければならない」
 毒ガス兵器の残虐さ、被害の悲惨さを伝える重要性に気付かされ、日中戦争での加害性も積極的に語るようになった。
 1996年に館長を退任後は民間団体の「毒ガス島歴史研究所」を旗揚げ。研究所代表として語り部の活動を続け、2012年に他界した。

広島県竹原市の大久野島で、来訪者に島の歴史を説明する山内正之さん=8月5日

 歴史研究所の活動は、事務局長の山内正之さん(77)や他のボランティアのメンバーに引き継がれた。元高校教員の山内さんは、中国での遺棄毒ガス兵器や旧日本軍による毒ガス使用の実態など自らが中国でのフィールドワークで得た成果なども織り交ぜ、大久野島の歴史を希望者に説明している。
 「毒ガス兵器による戦後の被害者は戦争がもたらしたもの。戦争がなければ被害者も生まれなかった」
 毒ガス資料館に展示されている年表には、中国牡丹江市で瀕死の重症を負った仲江さんの痛々しい写真が加えられていた。資料館は、日本の戦争が今なお終わっていないことを語りかける場にもなっている。

 

遺棄化学兵器の処理施設が完成するまで、容器に入れられ厳重に保管される旧日本軍の毒ガス砲弾=2006年、吉林省敦化市ハルバ嶺(共同)

 ▽取材後記
 毒ガスにこだわり続けて35年になる。取材のきっかけは旧日本軍の毒ガス兵器に関する極秘資料を入手し、記事として出稿したことにあった。
 当初、「毒」というおどろおどろしい響きもあり、とっつきにくいテーマだと感じた。しかし取材を進めていくと、日中戦争のさなかに中国に大量に持ち込み、実戦でも使用した旧日本軍の毒ガス問題は、日本近現代史の裏面史そのものであることが分かってきた。
 知られざる歴史を一つ一つ解明していくうちに関心が膨らみ、いつしかライフワークとなった。
 2022年9月29日、日中戦争に区切りを付けた国交正常化から50年が経過した。歴史的節目を迎えても、今なお毒ガス被害者が後遺症に苦しみ、若者にも被害が及んでいる実態がある。21世紀も被害が続く旧日本軍の毒ガス問題を検証することで戦争の真の愚かさ、恐ろしさを浮き彫りにしたいと考え、今回の記事を書いた。

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