追想~ 『誓い』を体現した人生 被爆者で初代「非核特使」山脇佳朗さん 9月17日、88歳で死去

かつての自宅があった長崎市の稲佐地区を記者と一緒に巡る山脇さん。懐かしそうに、歩き回る姿が印象的だった=2019年7月

 定年退職後、独学で習得した英語を生かし、国内外の人々に被爆の実相を訴え続けた。2010年には、核兵器使用の惨禍を世界に伝える外務省の初代「非核特使」に委嘱。「英語の語り部」の先駆者だった。
 11歳の時、爆心地から2.2キロの長崎市稲佐町1丁目(当時)で被爆。工場で働いていた父を原爆で亡くし、兄弟3人で遺体を荼毘(だび)に付した。
 19年8月9日の平和祈念式典で被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げた。当時の安倍晋三首相を見詰め「被爆者が生きているうちに唯一の被爆国として、あらゆる核保有国に『核兵器を無くそう』と働きかけてください」「もちろん、私も死ぬまで訴え続けます」と語りかけた。
 式典本番を前に、連載企画の取材で何度か会いに行った。寡黙でクールだが、被爆体験や生い立ちは惜しみなく語ってくれた。家族の話になると、途端に表情がゆるんだ。被爆当時の自宅があった稲佐地区を一緒に巡ると、思い出をたどるようにどんどん先へ進み、置いてけぼりにされた。当時85歳。その姿はしかし、一人の少年のようだった。
 向学心にあふれ、文筆活動も好んだ。新聞各紙へ頻繁に投稿を寄せ、13年には被爆体験やエッセーなどをまとめた書籍も出版。自らの生きた証しを、一つ一つ刻んでいるように見えた。
 次女の後藤真美子さん(60)は「父は責任感の塊。講話は生きがいだった」と言う。今年初めに肝臓にがんが発覚。2月には余命宣告を受けたが、依頼を受けた講話は断らず、6月下旬まで県内外で自らの被爆体験を伝え続けた。
 亡くなる4日前。弱りきった身体で、国際的な原爆写真ポスター展のオンラインイベントにメッセージを寄せた。「ご活躍を祈念しています」。死の間際まで願い、訴え続けた核廃絶。3年前の「誓い」を、まさに体現した人生だった。


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