<硫黄島に散る>戦地からの便り13通 諫早、篠﨑洋子さん 父の“妻子思うぬくもり、息遣い”

父が遺した自画像を手に、思いを語る篠﨑さん=諫早市宗方町

 見渡す限りの大海原が広がっていた。
 2006年12月8日、日本列島南方沖の硫黄島=東京都小笠原村=。日本の米ハワイ・真珠湾攻撃から65年となったこの日、自衛隊機から降り立った遺族約60人が参列し、戦没者慰霊追悼式が営まれていた。そこに篠﨑洋子(79)=諫早市宗方町=の姿があった。
 開戦で本土防衛の最前線に組み込まれ、戦争末期には日本軍約2万2千人、米軍約7千人もの犠牲者を出した死闘の島。多くの遺骨が帰郷を果たせぬまま、今もこの地に眠る。

戦時中の硫黄島略図

 陸軍に召集され、29歳で戦禍に倒れた洋子の父、中西信三もその一人だ。初めてこの島に足を踏み入れた洋子が目にしたのは、硫黄の臭いとともに立ち込める噴気、砲台の残骸、そしてあちこちに張り巡らされた地下壕(ごう)だった。「お父さん、大変だったね」-。米軍の激しい砲撃でその形が変わったといわれる島内最高峰の摺鉢山(標高170メートル)に立ち、父の最期に思いを巡らせた。
 父の記憶はない。信三は1943年夏、妻多津子=2004年、87歳で死去=と、生後半年だった一人娘の洋子を残し、戦地に向かった。宗方で育ち、旧制諫早中(今の県立諫早高)に通ったこと、諫早にあったパイロット養成所で飛行機の整備士として働いていたことなど、洋子が物心が付いて知り得た情報はわずかだった。
 古びた手紙とはがきが見つかったのは、時代が激動の昭和から平成へと移ったころ。実家を建て替えるため室内を整理していた際、和だんすの中から出てきた。手に取り、息をのんだ。

 「元気で軍務に励んで居る。御安心あれ」
 「洋子の写真を受領しました。(中略)あの無邪気な顔を見ると可愛さが一入(ひとしお)増して来ます。お前の一方ならぬ苦労が忍ばれて感謝して居ります」
 「故郷の風影がはっきりと想い出せる。県道を通るバスの音、走る島原鉄道の汽車の音さへ聞へる様な気がする」

 父が満州(現在の中国東北部)などから母に宛てた13通の便りだった。軍が検閲した印が押された軍事郵便で、検閲のためか一部が塗りつぶされたはがきもある。遠い戦地にあって妻子を案じ、望郷の念をつづった父。家族を思うぬくもり、息遣いが長い時を超えて聞こえてきた気がした。
 父の戦没者通知が一緒に見つかった。戦死の日付は1945年3月17日。場所は「硫黄島」とあった。
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 太平洋戦争開戦から8日で81年。“玉砕”といわれた硫黄島での戦いで父を亡くした洋子の思いを伝える。


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