<被爆2世の視線 初の判決を前に>がん闘病中の原告 私たちの体験が証拠、国は思い受け止めて

裁判資料に目を通し、国や裁判所に「被爆2世の思いを受け止めてほしい」と訴えた丸尾氏=諫早市内

 この数十年間で、被爆2世の友人や身内に相次いでがんが見つかった。自らも4年半前から膵臓(すいぞう)がんの闘病中。抗がん剤治療は順調に進んではいるが、いつ悪化するか分からない。
 被爆2世訴訟の原告の一人、丸尾育朗(75)=諫早市=は被爆の遺伝的影響だと考えている。「証拠は私自身の体験であり、がんで亡くなった2世たちの体験。国はその思いを受け止めてほしい」
 77年前。当時24歳の母親は爆心地から4.5キロの長崎市大浦川上町(当時)で被爆。丸尾はそれから2年余り後に生まれた。母親は多くを語らず、自らが「被爆者の子」との自覚は全く持てなかった。
 高校1年の10月、授業中に突然、貧血症で目の前が真っ白になり倒れた。登下校中も、たびたび道端に座り込んだ。きょうだいにも同じ症状があった。卒業後、被爆2世だった高校の先輩が急死。2世にも影響はあるのか-。丸尾は漠然とした疑念を抱き始めた。
 高卒で電電公社(現NTT西日本)に就職した丸尾は、労働組合活動の一環で親世代の被爆者運動の支援にのめり込む。1973年以降、全国で2世の組織化が進み、80年代になると、2世援護を国に求める活動が本格化していった。
 丸尾は98年ごろ、組合で親世代の被爆証言の聞き取りを始めた。2世の同僚女性と一緒に彼女の母親に話を聞いた時のことが忘れられない。娘への被爆の影響を心配する母親をおもんぱかり、同僚は「自分が病気になっても、被爆2世だからだとは思わない」と言った。だが1週間後、がんが発覚。「何で私が」と同僚は絶句した。入院や手術を繰り返し、2年余りで他界。51歳だった。
 「2世への放射線影響は頭では分かっていたが、それを目の前に突き付けられた」。丸尾の中で、疑念が確信に変わった。
 2002年、丸尾は「県被爆二世の会」会長に就いた。「37歳でがんになり、仕事もできない」「2世の夫が悪性リンパ腫で治療中。医療費補助はないか」。2世向けの相談窓口には、さまざまな健康不安の声が寄せられていた。
 18年、丸尾自身も膵臓がんと診断される。国が2世のがん検診すら実施しない中で小まめに自費で検査を受け、比較的早く見つかった。手術は成功したが昨年初旬に再発。血管にも転移したため再手術は難しく、医師に「あと1年」と言われた。同じ膵臓がんで苦しみながら逝った母親の姿が頭をよぎった。
 昨年6月、原告の一人として法廷で証言。余命宣告されていたため時期を早めてもらった。抗がん剤治療を続け、なんとか命をつなぐ丸尾。妻とこんな会話を交わす。「命の免許証、1年更新よね」
 訴訟で「遺伝的影響が確認された研究はない」と主張する国。丸尾には、2世の実態から目を背けているように映る。「判決で私たちの思いが認められれば、同じように放射能被害に苦しむ被爆体験者や核実験被害者、原発事故被害者の救済の『突破口』になるはず」。丸尾はそんな希望を胸に、12日、法廷で判決を聞く。
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