DFなのに「背番号11」を着用した11名のサッカー選手

本日は1月11日。

そこで過去にお届けした記事から、本職がディフェンダーにもかかわらず、FWやサイドアタッカーが好む「背番号11」を付けて活躍した11選手を紹介する。

ジャンルカ・ザンブロッタ

もともとMFだったジャンルカ・ザンブロッタは、ユヴェントス時代にサイドバックへ転向するとこれが大成功。2006年ワールドカップではイタリア代表のDFとして世界王者の一員となった。

当時「世界最高のサイドバック」の一人と称され、大会後にバルセロナへ。あまり活躍できなかったが、この時に11番を着用している。

アンドレ・サントス

「ロベルト・カルロスの後継者」とうたわれた左サイドバック。2009年のコンフェデレーションズカップでブラジル代表入りし、大会の優勝に貢献した。

キャリア全体では27番を付けることが多かったが、2011-12に加入したアーセナルで11番に。しかし期待に応えることはできず、短期間で退団している。

森岡隆三

日本代表で活躍したセンターバック。ライン統率に優れ、2002年ワールドカップでは同タイプの宮本恒靖とポジションを争った。

DFながら清水エスパルスでは10シーズンに渡り11番を付け続けた。これは背番号が固定制になる前年の1996年にたまたま11番を付ける機会が多かったためだという。

アレクサンダル・コラロフ

「セルビアのロベルト・カルロス」の異名でも知られた攻撃的な左サイドバック。

ラツィオに加入した際は3番だったが、「19歳までウィンガーだった」として2009-10シーズンに11番に。また、マンチェスター・シティでも途中で13番から11番へと変更している。

2022年6月に現役を引退。

リカルド・カルヴァーリョ

理知的なカバーリングを武器に、チェルシーで長く活躍した元ポルトガル代表のセンターバック。

キャリア晩年の2010-11シーズンから3年間レアル・マドリーに在籍したが、衰えが顕著だった2012-13シーズン、ラファエル・ヴァランに付けていた2番を奪われ、短期間ながら11番を背負った。

ファビオ・グロッソ

かつてイタリア代表で活躍した左サイドバック。2006年ワールドカップ決勝のフランス戦で最後のPKを蹴って成功させたことはサッカーファンの記憶に刻まれている。

そんな彼はアッズーリでは3番、最後に所属したユヴェントスでは6番だったが、ペルージャ、パレルモ、インテル、リヨンでは長く11番を付けてプレーした。

アレッサンドロ・コスタクルタ

セリエAが最強だった時代、“ロッソネリ”ことACミランで数々のタイトルを獲得した世界有数のセンターバック。

5番の印象が強いが、セリエAが固定番号制となって2年目の1996-97シーズンに1年だけ11番を背負っている。

シシーニョ

元ブラジル代表の右サイドバック。「カフーの後継」をマイコンやダニエウ・アウヴェスらと争ったが、レギュラーを勝ち取ることはできなかった。

そんな彼も例に漏れず攻撃的な攻め上がりが持ち味としており、レアル・マドリーに所属した2シーズンは11番を付けている。

ジョナタン・ゼビナ

セリエAで長く活躍した大型センターバック。「テュラムの後継者」として期待を集めたが、常にどこか不安定な面があり最後まで正当な評価を受けることができなかった。

その彼は晩年、昌子源も所属したトゥールーズに在籍した際に11番を背負ってプレーしている。

岩下敬輔

日本代表での出場経験を持つセンターバック。潜在能力の高さは折り紙付きだったが、やや荒っぽいプレースタイルにより損をした面も。

11番を着用したのは2018年から1年3ヶ月在籍したアビスパ福岡時代。その後移籍したサガン鳥栖でガンバ大阪時代と同じ8番を付け、2020年に現役を引退した。

シニシャ・ミハイロヴィッチ

DFで11番と言えば、やはり真っ先に思い出されるのはこの選手だろう。

現役時代、フリーキックのみでハットトリックを達成するなど、サッカー史上に残るプレースキックの名手だった。

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引退後も冨安健洋のボローニャで監督を務めるなど指導者として活躍していたが、2019年に白血病であることを公表。闘病しつつ現場に立ち続けたが、2022年12月16日に53歳で逝去した。

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