嶺南はかつて滋賀県入り運動も…福井県内2つの異なる文化 「嶺北の方言を福井弁と言うが間違い」

【グラフィックレコード】嶺北・嶺南2つの文化
江戸初期の「新人国記」に描かれた若狭の地図。越前、近江、丹波、丹後に囲まれている

 「モツケネエ」(かわいそうに)、「ワアメ」(お前)、「テキネェ」(病気でつらい)…。福井県の嶺北の人が使う方言の中には、嶺南では通じない言葉がある。一方、嶺南の人から穏やかな口調で「オオキニ」と言われると、嶺北の人たちは、まるで関西に来たような感覚になる。日本地名研究所の金田久璋所長(79)=福井県美浜町=は「嶺北の方言を福井弁と言うが間違い。越前弁が正しい」と指摘する。

 越前と若狭―。今の県域は大きく分けて二つの国の歴史が息づく。戦国時代には、朝倉の軍勢が、若狭の国吉城(美浜町)を攻めるなど、対立の歴史も含まれる。

 宗教も違う。「福井は真宗王国」と表現されるが、福井新聞が2010年に行った調査では、家の宗教について嶺北は、浄土真宗が71.6%だったのに対し、嶺南は26.1%。一方、禅宗は嶺南で40.6%を占めたが嶺北は3.3%だった。

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 越前と若狭が一つになった「福井県」の歴史は、実は新しい。明治政府が廃藩置県を行った1871(明治4)年、福井県と敦賀県が誕生し、2年後には敦賀県に統一された。その3年後には嶺南は滋賀県に、嶺北は石川県に編入した。曲折を経て1881年、現在の福井県になった。当時、嶺南では滋賀県への復県運動が展開された。

 特に若狭地方は、京都とのつながりが深く、古代から「御食国(みけつくに)」として塩や海産物などを都に運んだ。「鯖街道」と呼ばれる街道群は物資や人、文化も運ぶ交流の道だった。

 現在も、嶺南を西に行くほど、商圏は関西へと移る。「買い物は京都。プライベートで福井市には行かない」(小浜市の30代男性会社員)。2014年の舞鶴若狭自動車道の全線開通後も一般的な感覚だ。

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 福井県に対する帰属意識の違いが、浮き彫りになったのが、平成の市町村合併だ。03年3月、敦賀市の河瀬一治市長(当時)は、議会で「嶺南で一つになれないか検討していく。その後に嶺南と湖北、湖西地方で30万人都市を目指すという案もある」と答弁。同年に高浜町が行った合併の相手を問う住民アンケートでは、隣接する「大飯町(現おおい町)」が5割を占めたが、次は「京都府舞鶴市」で15.2%だった。当時、嶺南の住民からは「(道州制を見据え)福井県にとどまる必要性は感じない」といった声が多く聞かれた。

 南越前町から敦賀市に抜ける木ノ芽峠(628メートル)を境とする嶺北と嶺南。北陸新幹線は嶺北を縦断し、いずれ嶺南を横断する。県は福井県が新設された2月7日を「ふるさとの日」とし、嶺北嶺南の融合を図るが、金田さんは「若狭、越前の二つの文化が楽しめる福井県という売り出し方もよいのではないか」と提案する。

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