“源泉を活用し製塩” 戦中から復興期の小浜温泉街 旅館を上回る収入源で活気

小浜歴史資料館に残る製塩用に採掘された源泉。現在は入浴用に温泉街へ供給されている=雲仙市小浜町

 日本一高い源泉温度(105度)と豊富な湯量で知られる長崎県雲仙市の小浜温泉街。物資不足の戦中から戦後復興期の1950年代にかけて、海に面した立地と温泉を活用した製塩業で栄えた歴史がある。
 「雲仙・小浜温泉誌」(1989年、旧南高小浜町発行)などによると、太平洋戦争が始まった41年ごろ、小浜温泉街で源泉を利用した製塩を開始。塩の輸入が減る中、戦争末期の45年から生産が活発になった。
 戦後の物資不足の中、同温泉街では製塩のための源泉採掘が盛んに行われた。50年ごろ、53カ所の製塩場が営まれ、計約440人が従事していたと記録に残る。最盛期の52~56年度には、年間の塩生産量が約1万トン(国内の塩生産量の2%)に上った。塩は当時の専売公社が買い上げた安定的な収入源。この頃の小浜の製塩業総収入は年額約1億4千万円で、34軒あった温泉旅館の総収入約8千万円を上回っていたという。

小浜の製塩場の様子を写した絵はがき

 一方、源泉を利用した製塩は生産効率が悪く、度重なる源泉の掘削とくみ上げの影響で自噴量が減少。「温泉保護か製塩か」-。旧小浜町役場や製塩業者、旅館業者らは苦悩を深めた。59年、割高な国内製塩を整理する国策が決まったのに加え、台風の高波で多くの製塩場が損壊。65年までに同温泉街内の全製塩場が廃止された。
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 同温泉街にある小浜歴史資料館は元々、江戸時代から小浜温泉を管理していた本多家の邸宅。同家は44年、敷地内に源泉を掘削し製塩場「湯本興業」を構えた。
 源泉の熱を利用し、海水を蒸発させる製塩方法を採用。源泉を湯槽に流し、湯槽の上に複数の鉄鍋を並べた。鉄鍋から隣の鉄鍋へ海水をサイホンで移しながら、海水の濃度を高め、塩を取っていたという。
 戦争の光と陰を物語る製塩場の存在を思い起こす人たちがいる。当時、同邸宅に住んでいた本多宣章さん(82)=雲仙市小浜町=は「門のそばに塩を入れた俵袋が高く積み上げられていた。庭の湯槽から湯煙が上がり、とても湿度が高かった」と遠い記憶をたどる。製塩場では地元の人たちのほか、戦後の引き揚げ者たちも働き、住居にしていた長屋があったという。
 45年から同社で事務を担当した林カツミさん(92)=同=は「近くにあった(製塩の)組合事務所まで1日に何度も書類を持って行った。男の人たちは忙しそうに俵袋を抱え、トラックや港に運んでいたのを覚えている」と話す。
 別の製塩場で働いていた松尾カズミさん(86)=同=は19歳のころ、鉄鍋に入れた海水の上澄みを取り除く作業をしている時、高温の温泉を右足に浴びて、やけどを負った。苦い経験だったが「当時の小浜は製塩で活気づいた。私もいくらかでも復興の役に立つ仕事をしていたのかなと思える」と静かに振り返った。


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