Jリーグ30周年!水沼親子が語り合った日本プロサッカーの現在、過去、未来 開幕戦に出場した貴史さんと現役の宏太選手

対談で笑顔を見せる元日本代表の水沼貴史さん(右)と横浜Mの水沼宏太選手=2022年10月17日、横浜市

 サッカーのJリーグは1993年5月15日に国立競技場で行われたヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)―横浜マリノスで華々しく開幕した。今年5月に30周年を迎えるプロリーグの歴史をつなぐ親子がいる。歴史的な開幕戦に横浜Mの一員として出場した元日本代表の水沼貴史さん(62)と、長男で2022年シーズンに横浜Mの5度目のリーグ優勝に貢献したMF水沼宏太選手(32)だ。父から子へバトンを渡すように、Jリーグの現在と過去と未来、そして親子の関係を語り合った。(共同通信=出嶋剛)

 ▽開幕戦「VARがあったら、何人か退場していると思うくらい激しかった」

 貴史「あの開幕戦から30年。あっという間かもしれないけど、階段を一歩一歩上がってきたかなと思う。Jリーグがここまで発展、進化したのは本当に素晴らしい。それで日本のサッカーのレベルが上がり、子どもたちの夢が広がり、今やW杯に出るのが当たり前の時代が来た。あの開幕戦には、宏太も小さいながらもいた。あの国立に来ていた自分の息子が、今はJの舞台に立っている。感慨でしかないですよ」

国立競技場で行われたJリーグの開幕セレモニー=1993年5月15日

 宏太「小さかったので、試合のことは全然覚えてない。ただ、すごい光と音がして、たくさんの旗が揺れていた。そういう景色はなんとなく覚えているかな。試合を見たのは、20周年などの節目のタイミング。テレビで放送され、すごい激しい試合をしているなと感じた。プレースピードは今と昔は違うかもしれないけど、1対1のぶつかり合いと、試合に懸ける思いをみんなが表現していた。同じ選手としてすごく感じるものがありますね。あのときビデオ・アシスタント・レフェリー(VAR)があったら、何人か退場していると思うくらい激しかった」

 貴史「あそこに立っている人はみんな必死でしたよ。この舞台を目指してやってきて、ここに立てなかった先輩たちのためにもという思いもあった。先にもつなげたかった。ディフェンスするときに、みんなものすごく滑っているでしょ。人生の中で一番スライディングしている試合じゃないですかね。そういうところに気持ちが出るんですよ。あの木村和司さんも滑っているからね」

1993年5月15日、Jリーグ開幕戦で、横浜Mのディフェンスをかわしゴール前に攻め込む川崎・三浦知良選手

 ▽抑えられないくらい涙がこみ上げた

 日本には長い「サッカー冬の時代」があった。閑古鳥が鳴くスタジアムで歯を食いしばって戦いながら、夢見た舞台がJリーグだった。

 貴史「開幕戦前のウオームアップが終わって、暗転したスタンドをピッチから見上げながらスタジアム内に戻ってきた。(V川崎の)加藤久さんに『いよいよだな』と声をかけられ、もう抑えられないくらい涙がこみ上げましたね。じわっ、という感じじゃなかった。もう、あふれ出てきたんですよ。泣いているのはダサいと思ったので、すぐに顔を洗って切り替えましたけどね」
 「久さんもそうだったと思うけど、Jリーグに関われたってことがすごいなと思う。先人の中には僕らよりも素晴らしい選手たちがいたんだけど、Jリーグに間に合わなかった。この舞台に立てなかった人たちがいたんだ。そういう、いろんな気持ちが自分の中でも湧き上がって。走馬灯のように昔のシーンや顔が浮かび上がって、一気に涙が出たんですよね。それで逆にすっきりはしたんですけどね、(試合に向けて)ピッチに出て行くときには」

開幕戦を制し大喜びする横浜マリノス・イレブンとがっくりするヴェルディ川崎・柱谷哲二(左端)と三浦知良=1993(平成5)年5月15日、国立競技場

 宏太「この時にどんな思いで戦っていたか、というような話はしたことがなかった。『すごい激しい試合してたでしょ』っていう話くらいかな」

 貴史「日本リーグも人気がなく、お客さんも集まらない中でやっていた。日産自動車に入る時は30歳くらいで引退というイメージ。最初はサラリーマンで入社して、それで2年たって社員から契約の形に変えた。立場的にプロみたいな感じだけど、社会的には何にも認められてない。アマチュアで、普通の会社員だと思われていて。それがJリーグができるっていうような機運が高まり、33歳くらいのときに開幕ということに。夢は30歳を超えてそこに立つ、ということに変わったよね。あの舞台に立てたことで、自分の中で達成したという思いがあった」

対談する元日本代表の水沼貴史さん(右)と横浜Mの水沼宏太選手=2022年10月17日、横浜市

 ▽「水沼貴史の息子」と言われて…

 幼少期からサッカーに親しんだ宏太選手にとって、一大ブームを起こしたJリーガーの父は誇らしい存在だった。だが、同じ道を歩むにつれ、戸惑いも覚えるようになった。

 宏太「僕も小さい頃からサッカーが好きで、やってきた。父はサッカーがお仕事なんだと聞いて、かっこいいと思った。小学生の頃は誇らしかったですね。『うちのお父さん、サッカー選手なんだ』と。ただ、横浜Mのジュニアユースに入った中学生、(ユースに進んだ)高校生くらいから、少しずつ父の存在が気になりだした。少しずつ大人の階段を上り始めて『水沼貴史の息子』だと言われる。そういう見られ方をするというところで、感じるものはあった。ちょっと嫌だなという気持ちはありましたけど」
 「でも、そこまで抵抗はなかったんですよ、本当に。水沼家に生まれた宿命でもあるので。横浜でF・マリノスのエンブレムを付けたユニホームを着て、水沼の看板を背負ってやっていれば当たり前のことなので。当時は自分が周りのレベルにあまりついていけてないのもあって、その悔しさの方が大きかったですね」

 貴史「苦しんでいる部分があるのは分かっていたんですよ。僕だけじゃなくて、妻が宏太のことをすごくサポートしてくれていた。宏太も妻には感謝していると思う。ジュニアユースからユース、プロへと上がっていくと、いろいろ言われるようになる。でも反抗期みたいなものは本当になかった。宏太がすごいのは、見返すっていう気持ちに変えられること。僕の子どもに生まれたからこそ、そういうことに巡り合ってしまう。本当だったらサッカー選手の父親は『何だよ』と思われる存在かもしれない。自分の生まれた環境への不満を持つかもしれないけど宏太はそれがなかった。乗り越えてきているんですよ、彼は。僕も感謝しているし、妻も思っているんですよね」

 ▽ユニホームの表記を変えたワケ

 宏太選手は昨季からユニホームのネーム表記を『KOTA』から『MIZUNUMA』に変えた。横浜Mを象徴する選手の一人だった父と同じ看板を背負い、2023年シーズンも戦う。

 宏太「昨年は横浜Mの30周年だった。歴史あるクラブに在籍させていただいて、偉大な先輩がたくさんいる。その中には水沼貴史という自分の父もいます。30年後に、また水沼を背負って同じクラブで戦っている選手がいると知ってもらいたかった。親子なんだと感じてもらいたい。横浜Mの歴史を語り継ぐ上でもいいことなんじゃないかと思いました。横浜Mはこれからずっと続いて、どんどん大きくなるクラブだと信じている。その中に、親子でやっていた選手がいるんだと思ってもらえるとすごくうれしい。Jリーグ全体を見たときにも『あのクラブに親子がいたんだよね』という感じで語り継いでもらうことができたら、それもうれしい。だから、まだまだ頑張らないといけないなという気持ちがある」
 「なぜ名前をネーム表記にしていたかというと、やっぱり最初は自分の名前を知ってもらいたいと思っていた。水沼宏太として力を証明して価値を上げたい、認めてもらいたかった。だから名前でやってきた。でも、もういいかな、認められてきたかな、という気持ちもあった。それと、2021年シーズンは自分は1試合しか先発できなくて悔しい思いをした。他のクラブからオファーをもらった中で、横浜Mに残留してやろうと決めた。自分の中での覚悟も大きな理由ですね。水沼を背負うことで何かが変わることはないかもしれないけど、自分の中では覚悟をもってやろうという思いの表れでもありました」

父である元日本代表の水沼貴史さん(右)の話に耳を傾ける横浜Mの水沼宏太選手=2022年10月17日、横浜市

 貴史「最初に『MIZUNUMA』に変えると連絡が来たときに『いいよ』とすぐ返事したんですけど。覚悟というか、水沼で勝負するというのがうれしかったですね」

 宏太「父と比較する声があるのも分かっていたし、なんでそんなに比べる必要があるのかなとも思った時期もありました。でも父がこういうスタイルだから自分もこうしよう、というのは一度も考えたことはない。父には、サッカー選手としてうらやましいなと思う武器がたくさんあった。ドリブルとか、両足できれいに蹴れるとか。今でも『ほしいな、その武器』とは思いますよ。でも、自分が持っているものもある。同じ土俵で勝負というより、自分は自分の戦い方で勝負していくっていう感じでやってきた。父と自分を比べるのではなく、とにかく自分も認められて、一緒に有名になってやるっていう気持ちの方が強いかな。父と同じように、ということに頑固になって、ドリブルができるようになろうと努力をしていたら、ここまで試合に出させてもらうこともなかったかもしれない。だから自分は自分ですね」

 ▽小学生の頃、買ってもらえなかった日本代表のレプリカユニホーム

 宏太選手は2022年、32歳で日本代表に初選出された。親子で国際Aマッチ出場は初だ。

 貴史「発表の1時間前に宏太から連絡が来て。電話をスピーカーに変えて、妻と一緒に聞いて。僕も妻も泣きましたよ。本当にうれしくて。宏太はずっと代表を目指して、ずっと頑張ってきたのがようやく証明された。僕も常に高みを目指せとずっと言っていた。自分のレベルを超えろ、レベルアップしろと言ってきて、ようやくたどり着いた。小さな頃、日本代表のユニホームだけは買ってあげなかったんです。それは自分でつかみ取るものだ、と言ってね。彼はそれを成し遂げた。本当にすごい。素直にそう思います」

 宏太「確か僕が代表のユニホームがほしいと言ったことがあるんですよ。小学生の頃、練習の時にいろんなユニホームを着るのがはやった時期があった。それで代表チームがほしかった。オランダとかブラジルのユニホームは買ってくれたんですけど、日本はくれなかった」

対談する元日本代表の水沼貴史さん(右)と横浜Mの水沼宏太選手=2022年10月17日、横浜市

 貴史「深く考えて言ったことか分からない。でも、自分で取った方がかっこいいかなとは思っていた。子どもはいろんなユニホームを着て、その選手になった感じで練習するとモチベーションは上がると思うんですよ、普通はね。でも、それと違う感覚があったのかなと思いますね」

 宏太「当時は自分でつかみ取るものだ、という意味はそこまで分かっていなかった。買ってもらえないのか、というくらいで。でも、プロになってからは絶対に取ってやるという気持ちになりましたね。年齢を重ねるごとにそうなりました」

 貴史「水沼宏太という選手はキャリアを積んできて、アップデートできている。プレーの引き出しも増えてきている。それは結果にも出ている。クロスの精度もそうだし、プレーする場所を変えて点も取れるようになった。チームの戦い方が変われば、違うプレーもできる。監督が変わっても、その戦術に合うんですよね。宏太は小さいときから、1人というより何人かで成し遂げることが好きなんですよ。学校での生活でもそうなんですけど。そのために自分がやれることは何と考え、行動が生まれている。自分がどう思われても、その集団がうまくいくならなんでもやる。新型コロナウイルス禍で声を出しての応援が制限されたとき、宏太がピッチで常に大声を出しているというのが話題になった。静かなスタジアムにいつも宏太の声が響いている、と。それをやり続けられるって本当にすごいんですよ。そういうタイプが嫌いな人もいるかもしれない。うるせえ、とかってね。でもそんなの関係ない。チームがうまくいくために何をしないといけないかということができる選手なんですよ」

 宏太「根本的なところは昔から変わってないと思う。みんなでチームを良くしていくため、何をやるか。いろんな指導者の下でいろんな経験をさせてもらい、自分の武器を生かせるようにする。一年一年、考えながらやってきた。ユースの時と比べたら、プレースタイルはまた違う。毎年、毎年アップデートできている実感もある。また今年も違うものを見せたい」

対談で笑顔を見せる、元日本代表の水沼貴史さん(右)と横浜Mの水沼宏太選手=2022年10月17日、横浜市

 ▽サッカーの本質、永遠の魅力とは…

 開幕戦のピッチに立った先輩Jリーガーとして、貴史さんが現在のJリーグを担う世代に何を期待しているのだろうか。

 貴史「僕はユーチューブのチャンネルを持っているんだけど、その会員の方とやりとりするんですよ。僕よりちょっと年齢が下くらいの方で、子どもたちも独立して、夫婦でサッカーを楽しんでいる方が多い。試合開始の4時間前に会場に行って、スタジアムグルメを楽しみながら、ビール6本くらい空ける。入る前に飲んで、食べて、試合が始まると応援に集中して、ゴール裏で跳ねている、と。それが楽しくて仕方がないんですって。サポーターの生の声を聞いたことがなかったから新鮮でしたね。Jリーグは確実に根付いている。応援してくださる皆さんを喜ばせ続けてほしい」
 「30年前の開幕戦ではないが、やはりピッチの中で必死さを表現することですよ。これは絶対に伝わる。昨年の天皇杯全日本選手権決勝を見ていても、甲府の必死な姿は胸を打った。年配の甲府サポーターがスタンドで大旗を振っていたのが話題になった。新潟には100歳を超えたおばあさんのサポーターもいらっしゃるそうですね。そういう方々はチームが必死な姿を見ているはず。それは絶対に心を打つし、心を動かす。盛り上げる手段は変わるかもしれないけど、それは続けてほしい」
 「イングランドのプレミアリーグを見ていても、半端ないくらい1対1の局面が多く、相手ゴールに向かってものすごいスピードで走っていく。それはサッカーの本質であり、永遠の魅力だと思うんですよ。僕らの現役時代はそれしかなかったので、それで必死さを表現していたけど、今のJリーグにはそれプラス、テクニックがあります。戦術も素晴らしいものがあり、欧州にどんどん近づいている。30年前と競技レベルは次元が違う。ただ、根本は何かと考えたときに忘れないでいてほしいことがある。人の心は変わらない。必死さをピッチで表現するのがプロだと思います。それがつなぎ合ってチームになる」

「MIZUNUMA」の名前が入ったユニホームを手にする元日本代表の水沼貴史さん(右)と横浜Mの水沼宏太選手=2022年10月17日、横浜市

 宏太「Jリーグをつくるにあたって、父のような選手や偉大な先輩方が結果を残し、サッカーを広めてくれた。だからプロができた。僕らはそれが当たり前の時代。歴史は知っている方しか語れない。だけど、自分には父が引き継いでくれた。それを広めていきたい。サッカーってこんな歴史があるんだ、Jリーグってすごいということを伝えていかないといけない。言葉でもそうですけど、やっぱりプレーで、スタジアムでやることで見に来てくださる方がたくさん増えてほしい。『サッカーって楽しいな』『感動するね』『明日頑張れそうだ』。そういうことを感じられるのがスタジアムだと思う。水沼宏太を見たら元気が出る、勇気がもらえる。そう言ってもらえる選手にならないといけない。偉大なる先輩も近くにいる。これからも喜んでもらえるように頑張りたい」

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