米軍機の機銃掃射の恐怖、今も鮮明に 西田金蔵さん(86) 各地で続く争い憂う

父が復員したときに持ち帰った木箱を今も大切にしているという西田さん=松浦市御厨町の自宅

 「バリバリバリ!」-。雷のような大きな音が突然、自宅の真上に響いた。「早く牛小屋に逃げなさい」。母の叫び声に無我夢中で隣の牛小屋に駆け込んだ。終戦の年(1945年)の初夏だった。後に米軍機の機銃掃射の音だったと知ったが、今思い返してもぞっとする。
 36年に農家の長男として生まれた。翌年から日中戦争が始まり、物心ついた頃には戦争一色。陸軍軍人だった父(伊蔵さん)ら、ほとんどの男性は出征し、集落には高齢者と女性、子どもだけ。田植えや稲刈りは総出で助け合った。
 授業を午前中で終えると、午後は空襲に備えた避難訓練をしたり、ツワブキなどの山菜採り、畑の開墾をしたりした。茎から繊維を取るためにパンパン草(カラムシの一種)を刈って軍に納めた。母たちも国防婦人会として、航空機燃料となる松の切り株を掘り起こし供出した。
 父は中国で杭州湾上陸作戦(37年)に従軍するなどして帰国。大村で勤務していたが44年春、部隊の移動命令が出た。面会に行った時、父は黙って地図を開き、ある所を指さした。母たちの表情から沖縄だと思った。
 終戦の玉音放送を聞いた記憶は無い。母から「負けた」と教えられ、悔しかった。それほど軍事教育の影響は強かった。
 戦後間もなく、父は無事に復員した。南大東島の守備をしていたと話してくれた。持ち帰ってきたのは書類などを入れる二つの木箱。精製前の砂糖(粗糖)が詰められていた。島で分けてもらったようだ。当時はとても貴重品。近所に分けありがたがられた。木箱は遺品として大切にしている。
 居間には、中国で知り合った現地の僧侶に書いてもらった書が額に入れて今も飾られている。その書には父の名と陸軍伍長の階級、昭和13年(38年)と添えられている。そのほかに、父の軍歴などの記録は、手元にほとんどない。よほどつらかったのか、76年に68歳で亡くなるまで戦争の話はあまりしたがらなかった。それでも、日中戦争のときに銃弾が飛び交う中で上陸したことや、夜間偵察に出たときは死を覚悟したなど、わずかに語ってくれたことが今も脳裏に残る。
 ことしは戦後78年。だが、当時の戦場にはまだ多くの日本人兵士の遺骨が祖国に帰れないまま眠っている。先の戦争の後始末も終わらないままなのに、ロシアのウクライナ侵攻など世界各地で戦争や紛争、内戦は絶えない。そうした現状を憂いている。


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