長崎との民間交流の架け橋に ウクライナ正教会 日本唯一の司祭 コロルークさん(56) 

折り鶴を手に子どもたちと記念写真に納まるコロルークさん=長崎市立大浦小

 ウクライナで最も信者数が多いとされるウクライナ正教会で日本国内唯一の司祭、ポール・コロルーク(56)=東京都=。「長崎は力をいただく場所」と語る彼は、被爆から復興した長崎が戦禍のウクライナ人に「知識と知恵と希望」を与えられると考え、両者の橋渡しをするという夢を抱く。その背景には彼の生い立ちやロシア侵攻後の無力感、長崎での出会いがあった。
 「ウクライナでは珍しいことではなかった」。コロルークの家族がたどった壮絶な人生からは、ロシアやドイツなどの大国に挟まれたウクライナが歩んだ苦難の歴史が垣間見える。
 コロルークの両親はウクライナ生まれ。第2次世界大戦前後、母方の家族はユダヤ系だったためナチス・ドイツのホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)により殺された。父方の家族はソ連(当時)の兵に乱暴され、戦車や銃などで殺害。「理由はウクライナ人というだけだった。意味もなく殺された」と憤る。
 過酷な境遇を生き延びた父と母はやがて出会い、結ばれ、ポーランドへ逃亡。ゲシュタポ(秘密国家警察)に捕らえられて虐待を受け、2人とも強制収容所へ入ったが、そのさなかに戦争が終わった。2人は米国へ亡命した。
 1988年に米国から来日したコロルーク。2006年にウクライナ正教会司祭になった。旧ソ連の崩壊以降、ロシア正教会との間に溝ができ、在日ウクライナ人のための祈りの場が必要だったからだ。
 昨年2月、ロシアの侵攻が始まった。「まさか今の時代にこんな意味のない戦争が始まるなんて、全然思わなかった」とため息をつく。教会には避難民が多く訪ねるようになった。コロルークは心のケアに当たるが、言いようのない無力感にさいなまれていた。
 「テレビを見てもごはんを食べても、こんなことしていていいのかと自問している。カイロを使えば、寒い寒いウクライナでカイロを使いたい人がいっぱいいるのに、と。自分に何ができるか分からない…」
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 そんな中、昨年8月、宗教や宗派の枠を超えて世界平和を祈る県宗教者懇話会の慰霊祭に招かれ、初めて長崎を訪問。路面電車に乗っていると、一人の少女が席を譲ってくれた。少女は「長崎居留地キッズコーラス」のメンバーだった。この出会いを機に、コーラス隊はウクライナ語の歌の練習を開始。今年1月、再び来崎したコロルークはコーラス隊の練習に顔を出した。子どもたちが歌い始めると、涙がとめどなくあふれてきた。「私は聖職者。本当は人を助ける役割だ。でも、みんなから力をもらった」
 コロルークにとって、長崎は特別な町になった。原爆と殉教という悲劇を乗り越え、美しい港町として復興した被爆地。発信するメッセージは「希望をなくさず再建させる力がある」と感じている。また、さまざまな形で平和を訴える長崎の人々に接すると「どこにいても、自分の立場で自分なりに何かをしよう」と自然に思えるという。
 今の夢は、長崎とウクライナ南東部のマリウポリを結び付ける民間交流の架け橋となることだ。要衝だったマリウポリは今回の侵攻で激戦地となり、民間人の死者は数万人に上ると考えられ、街は廃虚となってしまった。
 もともと美しい港町のマリウポリ。人口も約40万人と長崎とは共通点が多い。何より、長崎には灰じんと化した町を再建した経験がある。いつかウクライナで侵攻が終わり、途方もない復興に向き合わねばならない時、市民に訴えたいと考えている。
 「長崎ができたんだ。君たちだってできるよ」と。
=文中敬称略=


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