「人類は愚かではないと実証して…」92歳の男性の切なる願い G7広島サミットを前に…

3か月後に迫ったG7広島サミット。この機会に各国首脳にはヒロシマで何が起きたのかを身をもって実感してほしいと被爆者たちは願っています。原爆によるケロイドに悩みながら、国内外で体験を証言してきた 森下弘 さん(92)もその1人です。核の問題に長く向き合ってきた 大原健嗣 記者の取材です。

森下弘さん(92)
― 整理は進みました?
「リスト作りがかなり進んでますね。一部、スキャンしたりね」

92歳の被爆者・森下弘さんの自宅です。海外での証言活動や高校教師時代の平和教育などの資料があふれんばかりに並んでいます。今、森下さんは、これらの資料を整理して次世代に役立てること、それにオンラインを含む被爆体験の証言活動に力を入れています。

森下弘さん
― 旧制広島一中の生徒が何人くらい、いらっしゃったんですか?
「えーっと、約70名」

森下さんが原爆に遭ったのは、旧制広島一中の3年生、14歳のときです。爆心地からおよそ1.5キロの鶴見橋西詰で建物疎開の注意事項を聞いていたといいます。

森下弘さん
「最初、閃光がひらめきますね。そして、その大きな燃えたぎっている、煌々と燃えたぎっている溶鉱炉、巨大な溶鉱炉の中へスポッと投げ込まれた、そういう感じでしたね。そのあとから音がやってきて、爆風がやってくるわけですが、バーッと押し倒されたんですね」

もうろうとした意識の中で河原にたどり着いたような気がするそうです。

森下弘さん
「もう水に浸かっていたかもしれないけど、この辺にもう1人の友だちがふと、わたしの前におったわけですよね。それで『わしの顔はどうなっているか』って聞くんで、見るとズルッと皮がむけて、皮膚がむけて、ぼろ雑巾を垂らしたようになって…。ほいで、そう説明してやったんだ。わたしも同じ状態だったんだけど、それを、自分を顧みる余裕はなくって」

九死に一生を得て、戦後はなんとか大学を卒業。高校の教壇に立ち、国語と書道を教えました。ただ、生徒への向かい方に悩みます。

48年前、RCCのスタジオで森下さんは、その心情について話しています。

森下弘さん(当時44) 1975年 夏
「教壇に立つようになったわけですけど、やはりケロイドのことが自分としては気にかかる。生徒たちがそういったものを見て、暗い気持ちになりはしないかということが耐えられないような気持ちで、常にこう原爆のことについてあまり語ることをしなかった。原爆について意識しないでいるときが、まあ、自分としては何か幸せだった」

しかし、生まれたばかりの長女がまだ目が明いていないのに母親の乳房に吸いつく姿を見て、その生命力に背中を押され、生徒と向かいあって被爆体験を話し、平和教育に没頭するようになったといいます。

森下さんの人生に大きな影響を与えたアメリカ人女性がいました。私財を投げうって、反核平和運動に力を尽くした バーバラ・レイノルズ さんです。

森下さんは、バーバラさんが提唱した「世界平和巡礼」に参加。アメリカやヨーロッパで被爆体験の証言をし、核兵器の廃絶を訴えました。

世界中から広島を訪れる人たちが出会い、平和について話し合う場所…。バーバラさんが設立したワールド・フレンドシップ・センターの理事長も長く務めました。

森下弘さん
― この字も森下さんが書かれたんですか?

「そうですね。『私も また 被爆者です(I, too, am a hibakusha)』。広島に来て、ヒロシマの被爆者たちのために、あるいは広島のために、平和のために生涯を捧げられたバーバラさんその人そのもの、あるいは広島のために尽くしたバーバラさんの生き様、それがそのまま、この言葉に表現されていますね」

「平和巡礼」以降も森下さんは海外でのヒロシマの発信に努めました。

5月には、G7広島サミットが開かれ、アメリカなど3つの核保有国を含む各国首脳が広島に集います。取材ノートに、森下さんのサミットへの思いを書いてもらいました。

『人類は愚かではない』

森下弘さん(92)
「戦争が終わったときに絶対に核はなくなる、戦争は絶対にないだろうと思ったんです、正直。最後の最後までわたしたちはがんばるけど、そのみんなも、特に世界をリードしていかなきゃいけないアメリカの大統領やヨーロッパの核を持っている国、持っていない国もあるけど、広島へ来て、『人類は愚かではない』ということを本当に実証してほしいと。みなさんの力で」

サミット参加者にヒロシマの地に立って、ここに何が落ちてきて、何が起きたのかを想像してほしい。今、森下さんは心からそう願っています。

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