「氷がとけていくように気持ちも和らいできた」も立場は“街を歩く死刑囚”…袴田巖さんまもなく87歳に

いわゆる「袴田事件」の再審=裁判のやり直しの可否について、東京高裁が3月13日に判断を下します。逮捕から57年。袴田巖さんは「死刑囚」として浜松の街を歩く前例のない状態で生活しています。

袴田巖さん、3月10日に87歳になります。

<支援者>

「(粟ヶ岳山頂に)来ました」

<袴田巖さん>

「ああ」

いまの好物は甘いもの。ドライブが日課となっている袴田さん。目的地として告げたのは「てっぺん」。袴田さんの自宅から車で90分、静岡県掛川市の粟ヶ岳の山頂にやってきました。おやつの時間でしたが、おでん、おしるこまで平らげました。

<店員>

「夕飯は大丈夫ですか?」

<支援者>

「大丈夫です、夜はラーメンですから」

<店員>

「そうなんですか」

<支援者>

「全部自分の歯なんです、虫歯一つないです。だから頑張れたんですね」

<店員>

「でしょうね」

手に入れた“制限のない生活”。しかし、この瞬間も袴田さんは死刑囚です。

1966年、旧清水市のみそ製造会社で専務一家4人が殺害された、いわゆる「袴田事件」。逮捕された袴田さんは裁判で一貫して無実を訴えましたが、1980年に死刑が確定しました。

<袴田巖さんの姉 秀子さん>

(袴田巖さんが家族に寄せた手紙)

「神様、僕は犯人ではありません。ここ静岡の風に乗って世間の人々の耳に届くことをただひたすらに祈って僕は叫ぶ」

身の潔白を訴え続けましたが、長年の獄中生活は袴田さんの精神をむしばんでいきます。

(釈放後の袴田巖さんの日記複写)

「全世界の天下を取った。国家権力者袴田巖」

死刑執行への恐怖から、袴田さんは自身の中に別の世界をつくりあげていきました。

<元死刑囚・故 免田栄さん2014年>

「大体が来るならば8時半ごろ。達しがあって、まもなく何人かの役人が来て連れていく」

死刑囚として34年もの間、刑執行の恐怖と直面してきた免田栄さん。死刑囚は毎朝、極限状態に追い込まれると語っていました。

<元死刑囚・故 免田栄さん>

「ダーッと寄ってくるんですよ、音が。自分の房の前に止まるか止まらないか、そこのところでこうだよ。執行される人の房の扉が開いたらはぁっと。こういう状態にその度なりました」

「再審開始です」

2014年、静岡地裁は再審開始を決定。袴田さんは実に48年ぶりに釈放されました。自宅に戻ったばかりの袴田さんは1日およそ10時間、家の中を歩きまわり、外には出ませんでした。

拘置所生活の後半、袴田さんは房内を絶えず歩き回っていたという証言もあり、その名残とみられています。釈放からおよそ9年、袴田さんの行動は明らかに変わりました。

<支援者>

「(ボクシングの)練習はきつかったですか」

<袴田巖さん>

「そうですね」

<支援者>

「どんなことやるんですか」

<袴田巖さん>

「朝走るんだよね」

<袴田さん支援クラブ 清水一人さん>

「きょうなんか、ひとこと言えば、必ず2つ、3つ返事をして普通の会話が成り立つようになってきたというか、氷が解けていくように巖さんの気持ちも和らいできたんじゃないかと思うんですね」

これは日々の袴田さんの様子を記録した別の支援者のブログです。

<支援者のブログ>

「今では『体調いいですか』などと気遣ってくださったり、ある時は、車で出かけるためバックする私を、バックオーライの手招き、誘導してくださるほどの変わりようです」

<袴田巖さんの姉 秀子さん>

「だけど、まだね、目がつり上がる時があるの。朝、顔を見れば普通の顔をしてる時はね、普通。ちょっと目が『がー』ってくりゃ、ちょっと異常な時。いまだに後遺症がある」

過酷すぎる現実から、妄想の世界を作り上げた死刑囚。

逮捕から57年の月日を経て、再審の可否が3月13日、示されます。

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