【中原中也 詩の栞】 No.48 「春」(詩集『在りし日の歌』より)

春は土と草とに新しい汗をかゝせる
その汗を乾かさうと、雲雀(ひばり)は空に隲(あが)る
瓦屋根今朝不平がない
長い校舎から合唱は空にあがる。

あゝ、しづかだしづかだ
めぐり来た、これが今年の私の春だ
むかし私の胸摶(う)つた希望は今日を
厳(いか)めしい紺青(こあを)となつて空から私に降りかゝる。

そして私は呆気(ほうけ)てしまふ、バカになつてしまふ
――藪(やぶ)かげの、小川か銀か小波(さざなみ)か?
藪かげの小川か銀か小波か?

大きい猫が頸(くび)ふりむけてぶきつちよに
一つの鈴をころばしてゐる、
一つの鈴を、ころばして見てゐる。

【ひとことコラム】空気も水も高みへと上っていく暖かさの中、晴れわたった空が心の内にある喪失感を映し出します。希望に満ちていたかつての春と今年の春との絶望的な落差。うちひしがれた詩人が見守る小さな水流や無心に遊ぶ猫の姿には、心の傷を癒やし再生を促す力が求められています。

(中原中也記念館館長 中原 豊)

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