「しゃくほう…された」逮捕から48年、袴田さんはついに姉の元へ戻った 死刑が執行停止になるまで(後編)

釈放後、東京都内のホテルで過ごす袴田巌さんと姉のひで子さん=2014年3月27日夜(弁護団提供)

 1966年6月に静岡県清水市(当時)の「こがね味噌」専務宅で一家4人が殺害された事件。無実を訴え続けても死刑囚とされた袴田巌さんの精神は、死刑執行の恐怖と長期の拘置でむしばまれた。面会に訪れた姉のひで子さんとの意思疎通も難しくなる中、裁判のやり直し「再審」を求める法廷闘争は続く。弁護団は再現実験を繰り返し、ずさんな捜査の実態を裁判所に突きつけ続けた。裁判官たちもついに「無罪」との心証を抱き、再審開始を決定した。(共同通信=藤原聡)

5点の衣類が見つかった1号タンク(山崎俊樹さん提供)

 ▽みそタンクを最初に捜索した警察官「何もなかった」
 ことし1月、静岡県警清水署の巡査だったA氏は、50年以上前の捜査を振り返り、取材に訪れた私に重い口を開いた。
 「みそタンクの中には何もなかった」
 事件から4日後の66年7月4日、捜査本部は、専務宅から東海道線を隔てて約30メートル先にあるみそ工場を大捜索した。A氏は同僚3人と班を組み、みそタンクを調べた。24基のうち1、2号タンクは返品されたみそ用。「一つは空っぽ。もう一つは膝までみそが入っていた」。懐中電灯を手に、はしごを伝って、みその残るタンク内に入った。「棒でみそを突っついたが、一切、何もなかった。あれば分かるはずだ」。A氏は、捜索時の様子や手の感触を思い起こすように語った。
 この捜索から1年2カ月後、1号タンクから血染めのシャツやズボンなど5点の衣類が入った麻袋が突然、見つかる。検察側は、従業員の袴田さんが犯行直後、タンクに隠したと主張した。袴田さんを死刑とした確定判決も、「5点の衣類」が犯行着衣であり、付いていた血痕が被害者の血液型と一致すると認定し、有罪の最大の根拠にした。
 しかし当時、「衣類発見」の報を聞いたA氏はこう考えていた。「捜索で何もなかったと警察として判断した。だから、その後に入れたのだろうと思った」
では、いつ誰が入れたのか。

「こがね味噌」工場のみそタンクから見つかった「5点の衣類」(山崎俊樹さん提供)

 A氏がみそタンクを捜索した7月4日、捜査本部は工場内の従業員寮も捜索し、袴田さんの部屋からパジャマや作業服などを押収している。袴田さんはこの日から捜査員に交代で尾行されるようになる。
 7月20日には、1号タンクに4トンを超えるみそが新たに仕込まれ、タンクの底に衣類を隠すことはできなくなった。
 袴田さんを尾行したこともあるA氏は、袴田さんが衣類を入れた「可能性はある」と言う。なぜなら「24時間監視していたわけではない。寮のある工場が職場なのだから、いつでも入れることはできる」
 だが、自室も捜索された袴田さんが「5点の衣類」を隠しておけた場所は見当たらない。
 袴田さんは8月18日に逮捕されたため、もし袴田さんが隠したのなら、衣類は少なくとも発見までに1年以上みそに漬かっていたことになる。袴田さんの弁護団はそのおかしさに気付いた。衣類の色は白く、血痕に赤みが残っていたからだ。1年も漬かっていたのなら、血痕はもっと黒っぽくなっているはずではないのか。弁護団はこう主張した。「5店の衣類は(何者かによって)発見直前にタンクに入れられた」
 これが裁判の最大の争点となった。

 

みそ漬け実験で使用したシャツを見せる山崎俊樹さん=2月

 ▽「5点の衣類」を実際にみそ漬けして分かったこと
 前回、再審開始を認めなかった2008年の最高裁決定は、「5点の衣類」について「長期間みその中に漬け込まれていたもの」と認定した。ただ、その根拠は特に示していない。本当に長期間つけ込まれたのだろうか? 弁護団は、実は数年前から「みそ漬け」の再現実験を始めていた。小川秀世弁護士が、「袴田巌さんを救援する清水・静岡市民の会」事務局長の山崎俊樹さんに声をかけて2005年11月にスタート。
「みそを水で溶いて衣類を漬けたら、似たようなものができるのでは」。まずはこう考えた。衣類に血を付けるため、生きた鶏を買って来て採血した。
 実際に、血を付けた衣類をみそ汁のような液体に漬けてみると、20分ほどで「5点の衣類」のような色合いになった。ところが、乾燥するうちに血痕は薄く広がり、見えなくなる。「血液が水に溶けてしまうのが原因」と山崎さんは話す。
 そこで、第2次再審請求の新証拠とするための実験では、みそからしたたる「たまり」に漬けることに。血液も、人から採取することにした。
 山崎さんは「血染め」にするには多量の血液が必要だと考え、採血のために10人を集めたが、実際には3人のわずかな血しか要らなかった。
 「血は布にすごく広がる。5点の衣類の血痕は30ミリリットルもあればできるのではないかと思ったほどだ」。
 たまりにみそを混ぜたどろどろの液に、血染めの衣類を入れて足で踏みつけると、20分ほどで「5点の衣類」とよく似たものができ上がった。一方、市販のみそに1年間漬けた実験では、衣類は濃い茶色に染まり、血痕は黒く変色した。
 つまり、「5点の衣類」の色は短時間でできたものであり、1年間漬けた場合は全く違う色になることが分かったのだ。
 2008年4月25日、みそ漬け実験の結果を新証拠として裁判所に提出。裁判のやり直しを求める第2ラウンド、「第二次再審請求審」が静岡地裁で始まった。

ズボンの端切れ(引き出しの左側)が袴田さんの実家から発見された時の写真(山崎俊樹さん提供)

 ▽ズボンのサンプル、取り寄せたものを警察が実家に置いた?
 2010年9月、袴田巌さんの2回の再審請求を通じて初めて、検察側が存在を明らかにしていなかった証拠が開示された。これも弁護団にとって大きな「武器」になった。
弁護団は当初から検察側の手持ち証拠を開示するよう求めていた。理由はアンフェアだからだ。検察は、警察などが捜査段階で集めた大量の証拠を保有している。だが、裁判に提出するのは限られた一部だけ。有罪を確実に勝ち取れる証拠を厳選する一方で、有罪に矛盾するような証拠や、無実を証明する手がかりになるような証拠があっても、検察側はその存在すら明らかにしない。こうした証拠は公益のために使われるべきで、検察側が都合よく使うのは不公平だ。
 検察側がこの時に開示した中には、みそタンクから発見されたズボンと同じ素材の端切れに関する捜査報告書が含まれていた。

「5点の衣類」が見つかったみそタンク(山崎俊樹さん提供)

 端切れは袴田さんの実家で1967年9月に見つかっていた。この端切れによって、ズボンと袴田さんが結びつけられ、犯行時の着衣と認定された。
 弁護団がこの捜査報告書を検証したところ、端切れが発見される8日前に、捜査員がズボンの製造元から同じ生地のサンプルを入手していた。発見の6日後にも、再びサンプルを受け取っていたことも分かった。
 弁護団は、サンプル自体の証拠開示を求めたが、検察側は1枚だけ提出。もう1枚は「見つからなかった」と回答した。弁護団はその対応をいぶかしみ、こう主張した。「サンプルを2度入手するのは不自然。最初の1枚を実家で発見したように装ったのではないか」
 ところで、この端切れはどのようにして実家から発見されたのか。袴田さんを支援する「袴田巌さんの再審を求める会」代表の平野雄三さんは、実家を捜索した捜査員から1993年に話を聞いており、その内容を以下の通り、報告書にまとめていた
 「67年9月12日、捜査員が実家に着くと、捜査主任だった静岡県警捜査一課の松本久次郎警部が既に家に上がり込んでいた。捜索目的はズボンのベルトと手袋だったが、『タンスの引き出しを調べてはどうか』と松本警部から言われ、引き出しを見ると、端切れが入っていた。松本警部は『これが見つかったズボンの端切れに違いない』と言って、袴田さんの母親から任意提出を受けた…」

一家4人が殺害された橋本さん宅跡。焼け落ちた家は建て替えられている=2月、静岡市清水区

 ▽「袴田と一緒に消火活動をした」食い違う供述も。ついに…
 さらに、検察側がその後に提出した証拠にも重要な供述調書があった。袴田さんと同じ工場の寮にいた元同僚2人が事件直後、県警の事情聴取にこう話していたのだ。「サイレンを聞いて部屋を出ると、袴田が後ろから付いて来て一緒に消火活動をした」
 これは袴田さんを有罪とした確定判決と明らかに食い違っている。確定判決は「事件前日の午後10時半ごろから鎮火の頃まで袴田の姿を見た者はいない」と認定しているのだ。
 反対に、この2人の証言は袴田さんの主張「事件当時は部屋で寝ていた。火事を知り(同僚)2人の後から出て行った」という内容と一致している。
 2人の証言は後に「誰も目撃していない」と変わる。弁護団は「捜査員の誘導があったのではないか」とみている。
 

袴田事件で再審開始を認める決定が出され、喜びを語る袴田巌さんの姉ひで子さん=2014年3月27日、静岡地裁前

 静岡地裁は2014年3月27日、ついに再審開始を決めた。同時に、死刑・拘置の執行停止を決定し、袴田さんの釈放も認めた。
 村山浩昭裁判長の判断はこうだ。血痕のDNA鑑定結果から「5点の衣類」は「袴田さんの着衣でも犯行着衣でもない」と認定。衣類と血痕の色は「みそ漬け実験の結果、1年以上みそに漬かっていたとするには不自然で、ごく短時間でも同じ状況になる可能性が明らかになった」と指摘した。
さらにこう言って警察・検察の捜査を断罪した。
 「証拠が捏造されたと考えるのが最も合理的であり、証拠を捏造する必要と能力を有するのは、捜査機関をおいてほかにないと思われる」
 そして最後に、袴田さんのおかれた状況についても言及。「長期間、死刑の恐怖の下で拘束された。捏造の疑いがあり、国家機関が無実の個人を陥れたことになる。拘置を継続することは、耐え難いほど正義に反する」

 

再審開始決定が出され、東京拘置所を出る袴田巌さん。右は姉のひで子さん=2014年3月27日午後5時21分、東京・小菅

 ▽やっと握れた弟の手「いつの日以来か」
 ひで子さんは、新幹線で東京・小菅の東京拘置所に向かった。
 午後4時過ぎ、面会室で袴田さんと対面したひで子さんは「巌、再審開始になったよ」と話しかけたが、袴田さんは「うそだ。再審は終わった。もう帰ってくれ」と取り合わなかった。
 面会終了後、ひで子さんは「また明日、説明に来ればいい」と思った。実は検察側はこの日、拘置の停止決定を取り消すよう静岡地裁に求めたが退けられ、釈放が決定した。だが、ひで子さんはまだ、そのことを知らなかった。
 長い廊下を歩いていると、看守長が来て「まだ話があります」と応接室に案内した。ひで子さんが長椅子に座って看守長らと話していると、紙袋を持った袴田さんが一人で歩いて入って来た。
 姉の横に腰を下ろした袴田さんは、ぽつんと言った。「しゃくほう…された」「良かったねえ!」。ひで子さんは喜びの声を上げ、弟の手を握りしめた。
 

袴田巌さんのひげをそりクリームを塗るひで子さん=2月、浜松市

 

 手を握ったのは、いつの日以来だろうか。いつも会っていた面会室はアクリル板に遮られ、触れ合えない。「巌の手は温かく、柔らかい」とひで子さんは思った。
 事件が起きた1966年6月30日は、ビートルズが日本武道館で初来日公演をした日だ。袴田さんが逮捕されてから48年の歳月が流れていた―。
 ひで子さんは、釈放の日を忘れられない。「うれしくて、それまでの苦労も嫌なことも、全部すっ飛んじゃった」

【前編はこちら】
[https://nordot.app/1009393408728694784?c=39546741839462401
](https://nordot.app/1009393408728694784?c=39546741839462401)【前回の連載記事(前編)・なぜ袴田巌さんは「真犯人」に仕立て上げられたのか】
https://nordot.app/995921334327246848?c=39546741839462401
【前回の連載記事(後編)・取り調べは「拷問、裁判長は勘違い、エリート調査官も誤り」】
https://nordot.app/995923719659945984?c=39546741839462401

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