「ご飯に毒が入っている」袴田さんは拘置所で精神をむしばまれた。3畳間の独居房、執行の恐怖…死刑が執行停止になるまで(前編) 

事件当時、被害者の「こがね味噌」専務の両親と長女が住んでいた住宅。この後方にみそ工場があり、静岡県警が1号タンクなどを捜索した=2022年12月

 1966年6月に静岡県清水市(現静岡市)のみそ製造会社専務宅で起きた一家4人殺害事件。逮捕された袴田巌さんは無実を訴え続けた。当時の捜査は疑惑まみれだったが、裁判所も追認し、1980年に最高裁で死刑が確定した。
 今年3月13日の東京高裁決定は、裁判のやり直し(再審)開始と袴田さんの釈放を決めた静岡地裁の決定を支持し、「捜査機関による証拠捏造の可能性が極めて高い」と判断。検察側が特別抗告を断念し、やっと再審が確定した。ただ、逮捕から約57年、最高裁判決から数えても40年以上かかっている。
 無実であるにもかかわらず東京拘置所に閉じ込められた袴田さんは、いつ死刑が執行されるかもしれないという恐怖の中、精神が徐々にむしばまれていった。姉のひで子さんも人生を大きく狂わされた。裁判所が自らの誤りをただすのに、なぜこれほど時間がかかったのか。静岡地裁での最初の再審開始決定と釈放までを追った。(共同通信=藤原聡)

 

袴田巌さんが再審請求で提出した「意見書」。「私は無実である」と書かれている

 ▽弟の死刑確定、体も心もぼろぼろになった姉
 最高裁で死刑が確定した1980年11月頃から、袴田さんの姉ひで子さん(90)は、なかなか寝付けなくなった。「なぜ巌が死刑なのか。自白は強要されたものなのに」。布団に入っても、東京拘置所の独居房に閉じ込められている弟のことが頭をよぎり、目がさえたまま朝を迎えることもあった。やがて、眠るため酒に頼るようになる。
 「ご飯をろくに食べず、夜はウイスキーをお湯で割って飲んでいた。夜中にふと目を覚ますと、巌のことが浮かぶ。何でこうなったのか、と思うと眠れなくて…。それでまた、ウイスキーを飲んだ」
 ひで子さんは食品関係の会社で経理を担当。毎朝出勤したが、深夜にあおった酒が残ることもしばしば。「殺人犯の姉」という目で見られるのが嫌で、人付き合いも避けた。体も心もぼろぼろの日々が3年ほど続いた。
 一方で、袴田さんの冤罪を信じ、救おうとする動きは活発化していた。著名人や地元の同級生らが次々と支援組織を結成。日弁連は「袴田事件委員会」を設置した。集会が開かれるようになり、街頭でのビラ配りや署名活動も始まった。だが、ひで子さんは支援者から連絡の電話があっても、酔って応対できないことがあった。断酒を決意し、1日、2日、1週間、1カ月…。飲まない日を数えながら、水をがぶがぶ飲んで我慢した。「1年以上やめると、やっと飲みたくなくなった」

 

 

静岡県警が「脱出は可能だった」として裁判所に提出した写真。上部の留め金は写っていない(山崎俊樹さん提供)

 ▽「裏木戸を通った」という不可解な確定判決
 袴田さんの弁護団は1981年4月、静岡地裁に再審を請求した。再審が認められるためには、死刑判決を支えている証拠を突き崩す「新たな証拠」が必要になる。弁護団がまず注目したのは、真犯人が被害者の家にどうやって出入りしたかだ。確定した判決では「袴田さんは裏木戸を通って脱出」となっているが、弁護団は「物理的に不可能だ」と訴えた。
 裏木戸は、袴田さんが住んでいた従業員寮があるみそ工場から、線路を挟んで数十メートルの場所にある。上と下に留め金があり、木のかんぬきがかかる構造だった。判決は「上の留め金はかけたままの状態で、下の留め金は(外れて)オスの部分だけが付いていた」と認定している。
 1981年1月、弁護団の依頼を受け、東洋大工学部による鑑定実験が行われた。裏木戸を再現し、上の留め金だけをかけて、通り抜けられるか確かめた。男子学生が計4回、木戸に加える力を変えて実験したが、体を隙間に入れようとした瞬間、留め金がはじけ飛んだ。
 

 静岡県警も同様の実験をしたが「脱出は可能だった」として、人が通り抜ける写真を裁判所に提出。だが、この写真には上の留め金が写っておらず、後に写真工学の専門家が解析した結果、上の留め金を外さないと同じ写真は撮れないと分かった。
 そもそも、袴田さんは夕食時などに裏木戸から橋本さん宅に出入りしており、留め金を外せば開くことは分かっていた。木戸の下からくぐり抜ける必要などなかった。
 弁護団は、裏木戸の実験結果を新証拠として提出した。しかし、再審請求審は一向に開かれない。
 いたずらに時が過ぎていく中、姉ひで子さん(90)がある日、東京拘置所を訪れると、面会室に現れた袴田さんは「きのう、処刑があった。隣の部屋の人だ」と興奮気味に話した。この日を境に言動がおかしくなっていく。長期の拘置と死刑の恐怖から、袴田さんに拘禁症状が現れてきたのだ。

開いた状態の「執行室」内の死刑囚が立つ踏み板=東京拘置所(法務省提供)

 ▽「悪魔がかぎあなを操っている」
 1981年10月4日、東京拘置所の独居房から袴田さんが、姉のひで子さんに宛てた手紙の一節にはこうある。
 「壁の色が何か異様にみえて人間の姿に固まり、その顔はだいぶ前に処刑された者であったりする。本当に悪魔が鍵孔(かぎあな)を繰っているとしか思えない」
 死刑が確定してから半年ほどたった頃、袴田さんは、近くの独居房にいた死刑囚の刑が執行されたと知り、衝撃を受けた。「次は自分かもしれない」。迫る死の恐怖に、さいなまれた。長期の拘置も影響し、徐々に精神がむしばまれていった。
 東京拘置所の独居房は3畳間にトイレと洗面所がある間取り。窓から空がわずかに見えるだけで外の景色は分からない。

東京拘置所の独居房。約3畳の居室の奥に洗面台と洋式便器が設置されている。窓の外には仕切りがあり外の景色は見えない=東京・小菅

 死刑が確定すると、外部との接触は制限され、家族や弁護士ら一部の人以外とは面会や手紙のやりとりができなくなる。
 ひで子さんは毎月1度、浜松市から東京・小菅の東京拘置所まで通い30分の面会を続けた。弟と会えるわずかな機会を無駄にしたくはなかった。
 絶望の淵にある袴田さんはキリスト教に救いを求めた。拘置所には仏教とキリスト教の「教誨室」があり、神父や牧師から教えを聞くようになった。日記には「私がカトリック者として生きる決意を固めた理由は、人間として絶対に正しく生きてゆける道があるからだ」と記した。1984年12月24日、袴田さんは、教誨師をしていたカトリック関口教会の志村辰弥神父によって洗礼を受けた。
 もう一つの心の支えは、死刑確定後に再審が開始された事件が相次いだことだ。86年5月30日には、島田事件の赤堀政夫さん(93)の再審開始が決定した。「今暗闇の中で、明かりを見たような思いでほっとしている。今度司法の正義を受けるのは私の番だ!」(日記)。袴田さんの期待は高まったが、静岡地裁からは何の連絡もないまま時が流れていった。

袴田巌さんの早期釈放と治療を訴える保坂展人・東京都世田谷区長。左は袴田さんの姉ひで子さん=2012年6月、浜松市

 ▽「弟に会えない」それでも通い続け
 袴田さんは1992年ごろから面会を拒否するようになる。安倍治夫弁護士は東京拘置所長を相手に、袴田さんの人身保護請求を東京地裁に申し立てた。これを受け、同拘置所は袴田さんの様子を記した答弁書や準備書面を提出したが、そこに驚くべき記述があった。
 袴田さんは「毒が入っている」と言って、ご飯を水で洗って食べたり、「電波が飛んでくる」と言って、菓子の袋を体に巻き付けたりしているという。拘禁症状が進み、精神の安定が崩れて破綻してしまったのだ。
 1994年8月9日、静岡地裁(鈴木勝利裁判長)は再審請求を棄却した。請求から13年以上の年月が経過していた。
 1998年の暮れ、弟から面会を拒否され続けていたひで子さんは、社民党の衆院議員だった保坂展人さん(67)に議員会館で会い、訴えた。「もう3年半も弟の巌と会っていません。何とかして会いたいんです」
 面会拒否が続いても、ひで子さんは毎月1度、電車を乗り継いで浜松市から東京・小菅の東京拘置所まで通っていた。「会えなくても面会に行ったことは巌に伝わる。家族はまだ見捨てていないよと伝えたかった」
 

衆院法務委員会に出席した森山法相(当時)=2003年3月18日

 法務委員会に所属していた保坂さんは、東京拘置所を管轄する法務省矯正局に、袴田さんの状態を問いただした。矯正局によると、袴田さんは、ご飯を一粒一粒洗って2時間ぐらいかけて食べる。その他の時間は、独居房の中をぐるぐる歩いて回っているという。
 保坂さんは2002年11月の法務委員会で袴田さんの様子について質問。議事録によると、森山真弓法相(当時)はこう答えた。「断片的に聞くところによりますと、少し常軌を逸し始めた精神状態なのかもしれないと思います」
 心神喪失状態にある場合、法相の命令で死刑執行は停止される。保坂さんは当時を振り返り、「法務大臣がこう言ったら死刑執行できるわけがない。この時に執行の可能性はなくなったと思う」と語った。

街頭で袴田巌さんの支援を訴える新田渉世さん=1月、東京・有楽町

 

 ▽「袴田巌はもういなくなった」
 袴田さんの67歳の誕生日である2003年3月10日、ひで子さんと保坂さん、3人の弁護士が東京拘置所を訪れた。この4年間でひで子さんは2回会ったが、弟は「自分は袴田巌ではない」と言って数分で面会を終えていた。
 保坂さんは拘置所側に面会ができるよう強く要求。刑務官は「部屋の畳替えをするから」と言って、袴田さんを独居房から面会室に連れ出した。
 椅子に座った袴田さんは次のように語った。
 「袴田巌はもういなくなった。全能の神である自分が吸収した」
 「東京拘置所は廃止された。俺は東京国家調査所の所長。死刑執行はできないようにした」
 袴田さんの言葉を、保坂さんがうまく引き出した。面会は30分に及んだ。
 「袴田さんが語るのは、いかに死刑ができないかということ。根源には死刑への恐怖がある」と保坂さんは言う。「死刑はないが、長期拘禁という刑罰を科し、袴田さんが権利主張もできない状態に追いやってしまった」

袴田巌さんの支援を続けてきた東日本ボクシング協会元会長の輪島功一さん=2月、東京都杉並区の輪島功一スポーツジム

 ▽支援に立ち上がったボクシング元王者
 2004年8月27日、東京高裁(安広文夫裁判長)は再審請求を退けた静岡地裁決定を支持し、袴田さんの抗告を棄却する決定をした。
 約1年後、ボクシングの元東洋太平洋バンタム級王者で川崎新田ジム会長の新田渉世さん(55)は、支援者から袴田事件の内容を詳しく聞く機会を持った。
 長時間の過酷な取り調べによる「自白」の強要、事件発生から1年2カ月後にみそタンクから見つかった「5点の衣類」…。話を聞くうちに新田さんは強い憤りを感じ、体が熱くなった。「もう、むらむらと火がついてしまって。すぐに支援活動を始めた」
 東日本ボクシング協会の理事会で袴田さんの支援を提案。会長の輪島功一さん(79)の了解を得て2006年5月、袴田巌再審支援委員会を立ち上げた。
 その年の12月、輪島さんや飯田覚士さん(53)ら元世界王者が、ひで子さんと東京・後楽園ホールのリングに上がった。輪島さんは「袴田さんが命あるうちにボクシング観戦させてやりたい」と語った。
 新田さんは毎月、東京拘置所を訪れ、面会を申請。断られ続けていたが2007年6月6日、面会が認められた。刑事収容施設法の施行で面会許可の条件が変わったからだ。
 会話がかみ合わないと聞かされていたが、「自分もボクシングをやっていた」と切り出すと、袴田さんはこう言った。「あんたの顔はポパイに似てあごが張っている。そういう顔は打たれ強いんだ」。その後も、フックの打ち方など、ボクシングの話題で会話が弾んだ。
 「袴田さんとボクシングの話をするのが自分の役割だと思った」
新田さんは毎月、面会を続けた。雑誌を見せて「今は女子のボクサーがいる」と言うと、袴田さんは「おなご衆がやるのか」と驚くこともあった。
 輪島さんは「ボクサーだからということで、警察は袴田さんに目を付けた」と怒りをあらわにする。「ボクサーほど一つのものに向かって努力する者はいないんだ」
【後編はこちら】
https://nordot.app/1009392321570242560?c=39546741839462401
【前回の連載記事(前編)・なぜ袴田巌さんは「真犯人」に仕立て上げられたのか】
https://nordot.app/995921334327246848?c=39546741839462401
【前回の連載記事(後編)・取り調べは「拷問、裁判長は勘違い、エリート調査官も誤り」】
https://nordot.app/995923719659945984?c=39546741839462401

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