心の故郷で親交深める 没後は「長崎県民の誇り」に<遠藤周作生誕100年②>

遠藤との思い出を語る大竹さん。遠藤が電化製品の空き箱に入れて送ってきたという「発毛機」が、大事に保管されていた=長崎市内の自宅

 遠藤周作(1923~96年)は、小説「沈黙」(1966年発表)の取材で訪れた65年以来「心の故郷」と呼ぶほど長崎の人と土地に親しんだ。たびたび来店したのが、長崎市万屋町の「とら寿し」(2008年閉店)。店主の大竹豊彦さん(85)はかつて、遠藤主宰の素人劇団「樹座」に参加。1987年、旧西彼外海町の「沈黙の碑」建立にも奔走し、生涯にわたって親交が深かった。
 72年ごろの春のこと。編集者といつものように来店した遠藤が、にやにやしながら大竹さんを見て「君、髪が薄くなったね」と言う。帰京した遠藤から、友人の発明家にもらったという「発毛機」が送られてきた。空気袋が入った鉢巻き状の帯を頭に巻き、ポンプで空気を注入して頭を圧迫する仕組み。同封の手紙には「1日5時間装着」とあり、大竹さんは毎日真面目に実行していた。
 夏になり、当時遠藤が身元引受人となって東京の大学に通っていた大竹さんの長女が帰省した。長女は発毛機を頭に巻いた大竹さんを笑って見ていた。その後、東京に戻った長女から電話が。「遠藤さんが『すぐやめなさい。毛なんか生えるもんか』と言っておられたよ。引っかかったわけよ、お父さん」
 シリアスな純文学作品の一方、ちゃめっ気あふれるエッセーも人気だった遠藤。「いたずら好きなんですよ。やられたあ、と思った」。50年前の出来事を、きのうのことのように喜々として語る瞳は、きらきらと輝いて楽しげだった。
 同市浜町の老舗婦人服店タナカヤの故田中直一さん・サダさん一家も65年以来、遠藤が「長崎の親類のような御一家」とした親しい間柄だった。「遠藤さんは気さくで面倒見が良かった」と、直一さんの長男で現タナカヤ相談役の直英さん(79)。「両親は長崎らしいもてなしの心を素直に表現できる人だった。遠藤さんもこれを素直に受け止め、信頼関係ができたのだろう」と振り返る。
 遠藤周作文学館(同市東出津町)の元学芸員で九州産業大(福岡市)の池田静香特任講師(47)は、65年から文学館が開館する2000年までの長崎新聞の関連記事をリスト化。県内での遠藤の動向や作品の受け止められ方を調べた論考を、昨年までに発表した。
 それによると、昭和期(1965年~89年1月7日)の来訪は7回。講演や文学碑の除幕式など公的な内容だが、記事には大竹さんやタナカヤの名も登場した。一方、平成期は没後に関連記事が急増した。池田さんは「特に文学館建設が決まった後、作家を県民の誇りとしていこうという論調が盛り上がっている。生前の関わりを素地に没後、一気に長崎で遠藤作品の受容が進んだのではないか」と話す。


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