徳川家康のお墓はなぜ日光に(前編) 鍵を握る北天の星 つながる「聖なる道」 歴史ミステリーに迫る

駿府城公園本丸跡に建つ大御所時代の家康像

 NHKの大河ドラマ「どうする家康」がスタートし、改めて脚光を浴びている徳川家康。最大の功績は、270年に渡る平和な世の土台を築き上げたことだろう。その家康の墓があるのが、世界遺産「日光東照宮」だ。なぜ一度も訪れたことのないはずの日光が選ばれたのか。謎に迫ってみたい。

 家康は1616年4月17日、駿府(すんぷ)城(静岡)で亡くなった。胃がんだったとみられている。

 いよいよ死を覚悟した家康は亡くなる前、天台宗の僧天海(てんかい)や本多正純(ほんだまさずみ)、臨済宗の僧以心崇伝(いしんすうでん)の側近3人を病床に呼ぶ。

 「遺体は駿河の久能山に葬り、葬儀を江戸の増上寺で行い、(中略)一周忌が過ぎてから、日光山に小さき堂を建てて勧請せよ」と指示し、「八州の鎮守となるだろう」と遺言したという。崇伝は「皆々、涙をなかし申候」と日記に書いている。八州とは関東8カ国を指す。

 家康は、将軍職を2代将軍・秀忠(ひでただ)に譲った後から死ぬまでの期間など、75年の生涯で延べ25年を駿府で暮らしている。遺言にある久能山は、その駿府城から南東に約10キロの距離にあり、駿河湾を見渡す景勝地。なるほど、遺言に残したくなる場所だ。増上寺は、江戸での徳川家の菩提寺(ぼだいじ)である。

 しかし、日光は一度も訪れたことがない関東地方の最北部だ。なぜ日光だったのだろうか。

 理由は諸説ある。一つは「源頼朝(みなもとのよりとも)の影響」説。奈良時代末に開山した日光山は、頼朝ら関東武士の尊崇を集めた山岳信仰の霊場だった。源氏の末裔(まつえい)を名乗り、鎌倉幕府の歴史をつづった「吾妻鏡」を愛読していた家康にとって、頼朝は尊敬する存在。戦国末期に衰退していた日光山の「再興」が念頭にあってもおかしくはない。

 もうひとつは「聖なる道」説。この説は、日光東照宮で長年神職を務めた高藤晴俊(たかふじはるとし)さん(75)が提唱した。高藤さんは「江戸から見て、日光は北極星の輝くほぼ真北の方向にある。この星が日光鎮座の鍵を握っている」と指摘する。

 北極星は、古代中国で全宇宙を支配する「天帝」の住居と信じられていた。天帝から地上の支配者として「天命」を受けた者が、天下人になるという。

 江戸城を北上すると、日光につながり、上空で瞬く北極星までが南北の軸線で結ばれる。このラインを「北辰(北極星)の道」と呼ぶ高藤さん。「東照宮の造営者は家康公を北極星と見立てることで天帝と一体の存在にさせ、正当性を高めようとしたに違いない。東照宮の本質がそこにある」

 家康ゆかりの「聖なる道」はさらにつながる。生誕の地の愛知県岡崎と久能山は同緯度上にある。この2地点の間には家康の母が子授け祈願をした鳳来寺もあり、生死にかかわる場所が東西一直線に並ぶ。高藤さんは「太陽の道」と呼ぶ。

 そして「不死の道」もある。久能山の北北東には不死の山といわれる富士山がある。さらに延長すると、「徳川家遠祖の地」とされる世良田(群馬県太田市)を通り、日光にたどり着く。

 それぞれ3本の道が、日光に集約される。「西に没した太陽が東でよみがえるように、久能山で神として再生した家康公が、不死の存在として日光から世を照らしながら江戸を守る礎となった」と強調する。

 と、ここまできて、「正確な地図もない時代にここまで分かっていたのか」との疑問が残る。

 高藤さんの解釈は明快だ。「偶然の一致だったかもしれないが、すべてが論理的に説明できてしまう。まさに日光は『約束された土地』だった」

 (後編に続く)

 

光東照宮の上空からヘリで日光市街を望む。左下は家康が眠る奥社
陽明門の真上に輝く北極星を中心に同心円を描いて周回する星々(1989年冬、高藤さん撮影)

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