『ホンダNSX(1997年)』GT500マシンを変えた空力追求ミッドシップ【忘れがたき銘車たち】

 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、1997年の全日本GT選手権を戦った『ホンダNSX』です。

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 ホンダの誇るミッドシップピュアスポーツカー、『NSX』が全日本GT選手権(JGTC)を戦い始めたのは1996年のことだった。

 1996年は、前年にル・マン24時間レースのGT2クラスを『NSX』で制したチームクニミツが主体となって、イギリスのTCPがル・マン24時間レースのLM-GT2クラスを戦うことを目的に開発したマシンを流用しての参戦だった。

 そのため、日本のJGTCを戦うには絶対的に戦闘力が不足しており、ポイント獲得がやっと……という状況に陥っていた。

 この大苦戦ぶりを同年の最終戦を視察して目の当たりにしたホンダは、JGTCに本腰を入れて挑戦することを決めて、1997年シーズンからのエントリーを目指した。

 ホンダは1997年型の『NSX』の開発にあたって、車体を童夢、エンジンを無限に担当させることを決めて、“無限×童夢プロジェクト”を発足。ホンダは、そのプロジェクトを支援をするという体制を整えた。

 マシンの開発がスタートしたのは1996年11月のことで、翌1997年シーズンの開幕まであまり時間が残されていない状況だった。そんななか童夢は、自社のムービングベルト付き風洞を使って、風洞実験をスタートさせた。さまざまな分野で開発が進むなか、まず発生した問題がモノコックの剛性確保だった。

 市販車の『NSX』は軽量なアルミモノコックが採用され、それが売りのひとつでもあったが、そのままではスチール製のロールケージと溶接ができず、ボディ剛性を上げることが困難だった。

 そこで特殊な方法でボディとロールケージを締結したほか、ロールケージの上にカーボンを重ねるなどの手法も使って、必要な剛性を確保していった。

 その補強はモノコック下面にも及んだ。車体の下面をカーボンを使って補強し、平面なフロアを形づくった。これによって“補強”という名目でもありながら、車体下面の空力性能を向上することにも成功していた。

 この頃、ライバルのニッサン・スカイラインGT-Rやトヨタ・スープラは、車体下面の空力というのは本格的に手をつけていない領域だったのだが、『NSX』は3.5リッターのNAエンジンというライバルより劣るエンジンパワーを補うべく、その領域にも手を加え、車体の性能を徹底的に高めようとしたのだ。

 この『NSX』が驚異的な速さを見せたことによって、結果的に翌年以降、GT500マシンの空力を急速に進化させるきっかけも作ったのだった。

 1996年の11月からわずかな期間で開発された1997年モデルの『NSX』は、1997年3月終わりの開幕戦には間に合わなかったものの、同年5月に富士スピードウェイで開催された第2戦でいよいよデビューを果たす。

 avex 童夢 無限 NSX(黒澤琢弥/山本勝巳組)とRAYBRIG NSX(高橋国光/飯田章組)という2台体制で戦いをスタートさせた『NSX』は、予選ではRAYBRIGが6番手という位置を確保するも、決勝では2台ともにリタイア。当初は駆動系に問題を抱え、ポイントも獲得できない状況が続いたが、実戦を戦いながら、そのトラブルも解消していった。

 MINEサーキットが舞台の第5戦では、avexがポールポジションを獲得。決勝でもRAYBRIGが2位表彰台、avexも8位に入賞して、『NSX』はようやく本領を発揮し始める。

 さらに最終戦のスポーツランドSUGOラウンドでは、予選でRAYBIRIGがポールポジション、avexが2位とフロントローを独占。決勝ではRAYBRIGが2戦連続の2位、avexが5位と勝利には手が届かなかったが、“NSX恐るべし”という速さを見せつけて、最初のシーズンを終えたのだった。

 そして、『NSX』は1998年に向けて同じNA2型であるもののまったく新しいクルマへと生まれ変わり、快進撃を見せていくのだった。

1997年の全日本GT選手権最終戦SUGOを戦ったRAYBRIG NSX。高橋国光と飯田章のコンビがドライブした。

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