EURO予選で日本人女性がストイコヴィッチとセルビア代表を撮影した。『最高の被写体との真剣勝負』

「欧州のブラジル」とも呼ばれ、数多くの名選手を生み出してきたユーゴスラヴィア。分裂後もクロアチアやセルビア、ボスニア・ヘルツェゴヴィナなどがワールドカップに出場するなど、サッカーが非常に盛んで熱い地域として知られている。

そのセルビアのサッカーを現地からレポートしていただくのが石川美紀子さん。バルカン地域の研究者でありながら、サッカーの取材記者やカメラマンとしても活躍している女性である。

今回は、3月24日に行われたEURO2024予選のセルビア代表対リトアニア戦で写真撮影を行った石川美紀子さんが綴る「カメラマン事情」。いい写真を撮るためにピッチで戦う写真家の奮闘とは…。

二日前に出た「EURO予選の撮影許可」。

EURO2024(欧州選手権)予選のセルビア対リトアニア戦、最終的に撮影許可の確認ができたのは試合前々日のことである。この業界で撮影している以上、いつかは代表戦を撮りたいと思ってはいたが、ついにその時がやってきた。

「マラカナのトンネル」前に置かれたEURO予選公式球!特別な雰囲気だ
セルビア代表キャプテン、タディッチ(Dušan Tadić)

今回の試合会場は私が日頃から撮影しているレッドスター・ベオグラードのホーム、通称「マラカナ」で、私にとっては世界で2番目に撮り慣れたスタジアムだ(ちなみに私が世界で最も撮り慣れているのは、セルビアとハンガリーとの国境の街スボティツァにあるスタジアム。年間20試合近く撮影している)。

試合前日。撮影パスを受け取りに、代表戦の準備が進むスタジアムへ。特別に設置されたユーロ予選本部がどこかにあるらしいのだが、なにせ初めての経験なのでわからない。しかしここは通い慣れたスタジアム、入り口のおっちゃんたちとは全員顔見知りなのだ。

貴重なEURO予選の公式取材パスとビブス

「明日の代表戦の取材パスを受け取りに来たんだけど、どこに行けばいい?」と私が声をかけるだけで、あとは全自動で本部まで連れて行かれて、こちらが用件を言うまでもなく取材パスが手渡される(笑)。ありがたや。

子どもたちも集まる平和な「マラカナ」

試合当日は前のめり気味にキックオフ2時間前に到着。だってここはマラカナ、レッドスター・ベオグラードがチャンピオンズリーグの試合を開催するときなどは特に、街中から大渋滞でスタジアム周辺は身動きが取れないほど混雑するものである。

しかし今日はリトアニア戦、政治的に警戒すべきカードというわけでもなく、拍子抜けするほど平和でのんびりした雰囲気だった。

キックオフ1時間半前。セルビア代表選手たちがピッチコンディションを確認している

構造も動線も勝手知ったるスタジアムなので、まずは日頃の経験から導き出されるベストな撮影位置を確保することに。

まだ報道陣もそれほど多く集まってきていないのをいいことに、いつもは熾烈な場所取り合戦で潜り込むのが難しい「ゴール横メインスタンド側」に自分の折りたたみ椅子と一脚を置く。

ゴール裏メインスタンド側に集まるカメラマン

キックオフ後はここで撮ることにして、最初にピクシーがピッチに入ってくるところを狙うべく、「マラカナのトンネル」ことロッカールームからピッチへの出入り口前でスタンバイした。

徐々に報道陣が集まり始める。レッドスターのリーグ戦よりはもちろん人数が多いが、大手新聞各紙からおなじみのカメラマンがやってくるので、アウェイ感はない。

スタンドからセルビア国旗を振りながら声援を送る子どもたち

うん、ここはホーム「マラカナ」だ。スタンドでたくさんの子どもたちがセルビア国旗を振っている。

代表戦は写真家にとって「最高レベルの舞台」なワケ

緊張感を漂わせながら一瞬で通り過ぎるピクシー
試合開始前、国歌斉唱が行われる

そして試合開始の時がやってきた。

代表戦のスピードに全くピントが合わせられない自分に愕然とする。さらにゴール前の攻防ではヘディングの打点の位置が想像以上に高く、ファインダーに納まらない…。

これが代表戦!いつも撮っているカテゴリーとのレベルの差とはこういうことなのか…!

苦しみながらなんとかピントを合わせたもの。

前半16分、タディッチの1点目が決まる。私が今回陣取っている「ゴール横メインスタンド側」は、本来、メディア各社のトップカメラマンが最高級カメラ機材を担いで陣取る特等席である。

基本的にレッドスターの選手たちはゴールを決めた後、このメインスタンド側に走ってゴールパフォーマンスをするのが暗黙の了解になっている。バッチリ撮影するためには、この特等席に場所を取るのが鉄則だ。

しかし、ゴールを決めたタディッチは、なんとバックスタンド側に走っていってしまった。代表選手たちには暗黙の了解など通用しないらしい。周りのメディア各社トップカメラマンたちが一斉に舌打ちする(笑)。私ももちろん撮れなかった。

タディッチの1点目ゴール後。バックスタンド側へと走っていってしまった

後半はバックスタンド側に移動して撮影。報道陣が多く集まるビッグマッチの場合、メインスタンド側はバズーカー級のレンズが密集して身動きが取りづらいため、私はバックスタンド側で自由に動き回りながら立ったまま撮影することが多い。

この位置で隣り合わせになるカメラマンたちとは、お互いに「同僚」と呼び合って情報交換などしたりもする。セルビア国内で絶対的な権威を誇るスポーツ専門紙「ジュルナル」のトップカメラマンも、いつもバックスタンド側に陣取っている。

メインスタンド側では撮れない写真を撮るのが彼のポリシーなのだ。ここで撮り始めて40年という大ベテランだが、この私を対等なカメラマン仲間とみなして仲良くしてくれている。経歴上、私にはカメラの師と呼べる人はいないのだが、彼と一緒に撮るようになってから、撮影のタイミングや位置取りなど盗み見て学ぶことも多々ある。

美しきヴラホヴィッチに「世界」を感じる

同じくバックスタンド側で撮っていたカメラマン仲間のひとりが「俺、ピクシーを撮ってくる」と言ってメインスタンド側に移動していった。彼はフリーでメディア各社に写真提供しているカメラマンで、なんとピッチサイドでタバコを吸いながら撮るスタイル。

いや、いくら喫煙率が高いセルビアでも、ピッチサイドでたばこを吸いながら撮るカメラマン、さすがに彼以外は見たことがない。ただ、取材範囲はカテゴリー的にも移動距離的にもかなり広く、優秀なカメラマンである(ちなみに私も、今のセルビアでは相当取材範囲が広いカメラマンの一人だと思うが)。

守護神ヴァニャ・ミリンコヴィッチ=サヴィッチ(Vanja Milinković-Savić)。マンチェスター・ユナイテッドに所属していたこともある
GKヴァニャの兄、セルゲイ・ミリンコヴィッチ=サヴィッチ(Sergej Milinković-Savić)

そうだった、私もピクシーを近くで撮らなきゃと、一緒にメインスタンド側へ移動。規制線ギリギリまで近づいて撮影してみた。

名古屋グランパスの監督時代、同じようにピッチサイドに立っていたピクシーの姿は、10年以上経った今も鮮明に記憶に残っている。こうして自分がピクシーと同じピッチレベルに立ち、撮影する日が来るとは。そもそもセルビアでカメラマンをやっている自分、「セルビア」という国も、「カメラマン」という職業も、当時は夢にも思わなかった…。

ピッチサイドに立つピクシー

この時に隣でカメラマン仲間が撮ったピクシーの写真は、翌朝の「タンユグ通信(旧ユーゴスラビア時代に世界を席巻した通信社)」で全世界に配信されていた。

そして53分、ヴラホヴィッチが決めた2点目。これは目の前の出来事だった。夢中でシャッターを切る。

2点目を決めたヴラホヴィッチ。隣で喜ぶのはグルイッチ
眼の前でゴールを祝うヴラホヴィッチ
メインスタンドに向かってガッツポーズをするヴラホヴィッチ

私はサッカー自体をそれほど理解しているわけではないけれど、良い選手は美しく撮れるというのは経験に基づく絶対的な信条で、そういう意味で代表選手は全員素晴らしく美しく撮れる。

その中でもヴラホヴィッチは圧倒的に美しかった。これが世界か…!

「代表戦」。一流の人間が真剣勝負する場。

試合後、撮影した写真を提供先に送る作業を終え、カメラマン仲間の運転する車に乗り合わせて市内中心部まで戻る。人によるとは思うが、私は1試合90分撮ると、そのあと猛烈に疲れて眠気に襲われる。これをピッチ上の選手たちに聞くと、たいてい試合後はアドレナリンが出て、疲れているはずなのに深夜まで寝られないらしい。フォトグラファーの私はどうやら逆のようだ。

車内で猛烈な睡魔と闘いながら、乗り合わせているジュルナルのトップカメラマン相手に「初めての代表戦で全然うまく撮れなかった」とぼやく私。「そういつだって上手く撮れるもんじゃないさ、それに美しく撮れないのは被写体側の問題だ」と慰められる。

そんなこと言っても被写体は世界最高レベルなんだから、美しく撮れないのは圧倒的に私の側の問題に決まってるじゃないかと、車窓に流れる街の光をぼんやり眺めながら心の中でつぶやく。

フィリップ・コスティッチ(右)とストラヒニャ・パヴロヴィッチ(左)
ストラヒニャ・エラコヴィッチ。レッドスターから招集されている選手だ
MFサシャ・ルキッチ(Saša Lukić)。プレミアリーグのフラムFCに所属している

ちなみに彼が使うカメラ機材は20年落ちの中古レンズで、私の機材レベルとそう変わらない。ということは機材の問題でもない。付け加えておくと、スタジアムで私は基本的に全てぐだぐだのセルビア語でコミュニケーションをとっているので、ここでの会話内容はあくまでもこんな感じのことを言っていた、という程度の話だが。

翌朝、ジュルナルの1面トップを大きく飾ったのは、彼が(メインスタンド側ではなく)バックスタンド側で撮ったタディッチの1点目だった。

試合後、ピッチを後にするピクシー。隣は喜熨斗勝史コーチ

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代表戦とは、一流の人間がそれぞれの立場で真剣勝負をする場なのだ。闘いはピッチの中だけではない。選手はもちろん、その場にいる全ての人間が世界の頂点を目指して闘っている。まだまだだ。果てなき闘いは続く。

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