「青い目の人形」再び沖縄へ 96年前、開戦前に届いた日米友好の証 15日、本土復帰から51年

シドニー・ギューリック3世氏から新たに贈られた「ダイアン」(左)と「ケイティー」を手にする西村恭子さん=加古川市東神吉町

 昭和のはじめ、開戦前の米国から日本に、友情の証として「青い目の人形」が贈られた。その数、約1万2千体。全国の子どもたちを喜ばせたが、太平洋戦争中に大半は「敵国の人形」とみなされ、焼き捨てられてしまった。寄贈から96年を経た今春、激戦地となった沖縄へ、平和の願いを込めて再び人形がやってきた。兵庫と沖縄にいる女性2人の活動が架け橋となって。(勝浦美香)

■沖縄では1体も見つからず

 沖縄は本土復帰から15日で51年を迎える。

 人形は「フレンドシップ・ドール」と呼ばれる。1927(昭和2)年に日米関係が冷え込む中、親日家の宣教師シドニー・ギューリック(1860~1945年)が寄贈。戦後に全国で約340体が見つかるが、国内最大の地上戦が展開された沖縄では、66体のうち1体も見つかっていない。

 今回、沖縄に届いたのは「ダイアン」「ケイティー」の2体。共に30センチほどの女児人形で、頭に花飾りをつけたり、ピンクのジャケットを着たりしている。

■童謡との出合い

 きっかけをつくった一人が、兵庫県加古川市在住の作家西村恭子さん(78)だ。20年前、戦時に市民らが守った2体が高砂幼稚園にあると知って調査を始め、県内で新たに3体を見つけた。ギューリックの孫で大学教授のシドニー・ギューリック3世氏とも知り合い、2018年に人形たちの物語をまとめた本「青い目の人形メリーの旅」を出版した。

 一方、沖縄在住のフリーアナウンサー伊良皆善子さん(77)も17年前から行方を追っていた。興味を持ったのは、童謡「青い目の人形」との出合いだった。

 ♪青い目をしたお人形は アメリカ生まれのセルロイド 日本の港へ着いたとき いっぱい涙を浮かべてた♫

 寄贈に合わせて全国でヒットした曲と知って歴史を調べ始め、当時の資料や証言にたどり着いたという。

 そんな2人を偶然、沖縄に滞在した男性がつないだ。兵庫県西宮市の公認会計士大塚勝弘さん(62)。伊良皆さんと知り合って活動に協力するようになり、西村さんの著書を読んで声をかけると、一気に話が進んだ。

 「沖縄のために、何かできないか」。西村さんがギューリック3世氏に相談すると「私が人形を贈りたい」と申し出があった。

 かつてと同じく今年3月3日、日本のひなまつりに合わせて西村さんの元に届いた。「90年前に太平洋を超えて贈られた人形たちと同じ思いを」とギューリック3世氏のメッセージを添えて。

■28日に現地でイベント

 人形の引き渡し式は28日に沖縄県立博物館・美術館(那覇市)である。ギューリック3世氏も妻と訪れ、現地の人々にスピーチをする。西村さんと伊良皆さんの対談や、現地の子どもたちによる合唱もある。

 西村さんは「人形には『幸せでありたい、平和でありたい』というシンプルな願いが託されていた。複雑な歴史をたどった沖縄で、かつての願いを語り継ぎ、明るい未来につながってほしい」と思いを語った。

■時勢に翻弄された「友情の証

 フレンドシップ・ドールが贈られた時代、米国内では日本移民への差別や、排斥運動が起きていた。1924(大正13)年に「排日移民法」が成立すると、日本側の反米感情も高まり、両国の間にはますます緊張が張り詰めた。

 そうした状況を憂いたギューリックは、差別も偏見も持たない子どもたちに希望を見いだした。人形を通じた国際交流に、教会や学校、ボーイスカウトらが賛同して資金を集めた。購入した人形にはそれぞれ名前をつけて日本へ送った。

 一方、日本側ではギューリックの知人だった渋沢栄一(1840~1931年)がこの企画に協力した。文部省に呼びかけて各都道府県に人形を配ってもらうなど、国家規模のプロジェクトとなり、返礼として58体の日本人形を米国に届けた。

 しかし、世界は戦争へと突き進んでいく。フレンドシップ・ドールたちは竹やりで突かれたり焼かれたりし、兵庫県内でも373体のうち11体しか現存が確認できていない。

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