元巨人ドラ1投手、スカウトに転身 未来の「怪物」発掘へ 中学は軟式、公立高の経験生かし「地道に」

メモ帳を手にネット裏から選手の動きをチェックする巨人スカウトの桜井俊貴さん=京都市内

 2015年のプロ野球ドラフト会議で巨人から1位指名を受け、7年間投手としてプレーした桜井俊貴さん(29)=神戸市垂水区出身=が、スカウトとして新たな一歩を踏み出した。中学は軟式野球部出身、公立校育ちの経験を生かし、「いろんなところにアンテナを張って、球界がざわつくような『怪物』をプロに入れたい」と意気込んでいる。(尾藤央一)

 3着新調したというスーツ姿でアマチュア球界へのあいさつ回りに奔走し、「読売巨人軍スカウト部」の名刺を配る日々。名刺入れは、チームメートだった田口麗斗(かずと)投手(現ヤクルト)から贈られたものだ。スピードガンやストップウオッチを手に、近畿・中国地区の試合をチェックする。 ### ■公立高育ち

 3月の選抜高校野球大会を境に活動が本格化し、1週間で10試合超を視察。「野球人生で一番細かく試合を見ている」といい、ネット裏から見る野球はマウンド上から見るそれとはまるで違った。先輩スカウトの「投手は練習より試合でどう投げるか。野手は試合での守備機会が少ないので、ノックも重要」という教えを胸に刻み、ベンチでの声かけや表情にも目を配る。

 帰宅後は選手の特徴をまとめたレポートを仕上げるため、夜遅くまでパソコンに向かうことも。手持ちのビデオカメラで映像を撮る機会もあり、「動画編集の仕方が分かってきた。ユーチューバーになれそうです」と慣れてきた様子だ。

 神戸市垂水区出身で、公立の北須磨高から立命館大を経て巨人へ。だが、初先発した試合で右ひじを肉離れし、1年目の登板はわずか1試合。伝統のある巨人で「常に見られている。つい練習をやりすぎることもあった」と、ならではの苦悩も経験した。

 プロ4年目の19年に初勝利を挙げると、8勝をマークして優勝に貢献。20年は開幕から先発ローテ入りしたが、勢いを持続できなかった。「勝たないといけない重圧の中、パフォーマンスを1年間保つのは大変だった。一番悔いが残った」。その後は2軍との間を行き来し、昨季は中継ぎで8試合の登板にとどまった。 ### ■最高の仕事

 「その日」は突然やってきた。昨年10月上旬、面談の日時が書かれた封筒を渡され、翌日スーツを着て球団事務所へ。「来季の契約は結びません。スカウト(の仕事)を用意している」と告げられた。

 12球団合同のトライアウトに懸けたが、他球団から連絡はなかった。「やることはやった。野球を長くできたことに感謝」と、現役生活に終止符を打つ決断をした。高校時代の恩師、徳山範夫監督(現須磨友が丘高監督)からも「スカウトはフロントの花形。選手を発掘する役目に選ばれた。引退してからの最高の仕事」と背中を押された。

 新米スカウトとして「予期せぬ出会いも大切に」と熱っぽく語る。背景には、私立の強豪ひしめく兵庫の高校野球界で、偶然注目を浴びることになった13年前の自身の体験がある。

 10年夏の兵庫大会3回戦。エース福敬登(ふくひろと)(現中日)を擁する神戸西高(現須磨翔風高)を軸とした合同チームを相手に、桜井さんは無四球完封。プロ注目だった中学の先輩との投げ合いを制して勢いづき、無名の公立校を24年ぶりの16強に導いたことで名が知れ渡った。だからこそ「自分のような境遇の選手も全国にたくさんいる。地道に動いて引き寄せていきたい」と言葉に力を込める。

 プレーだけでなく、人間性も重視する。自身も普段は温厚な性格ながら、マウンドに上がると形相を変え打者をねじ伏せてきた。「練習での姿勢、試合での様子が違う二面性のある選手も面白いかもしれない」。独自の視点を大切に、これから出会う未来のプロ野球選手に思いをはせた。

【桜井俊貴(さくらい・としき)】1993年10月21日、神戸市垂水区出身。多聞東小4年から野球を始め、多聞東中時代は軟式野球部。北須磨高では下級生からエースとして活躍し、2年夏の兵庫大会で24年ぶりの16強入りに貢献した。立命大では1年秋からリーグ戦に登板。3年秋に大学生ながらU21日本代表に選ばれた。2015年ドラフト1位で巨人に入団。19年5月にプロ初勝利。20年にはほっともっとフィールド神戸で行われたヤクルト戦で凱旋登板した。通算成績は110試合、13勝12敗。スニーカー集めが趣味で、1歳の娘と遊ぶことも楽しみ。

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