シベリアに散った最年少ダービージョッキー 前田長吉(青森・八戸市出身)生誕100年、制覇80年

クリフジに騎乗し史上最年少の20歳3カ月でダービーを制した前田長吉=1943年(前田貞直さん提供)
「長吉を悪く言う人はいなかった」と語る貞直さん。長吉の写真や競馬用のむちなどの遺品を大切に保管している=八戸市

 28日は競馬の祭典・日本ダービー。今年は、是川村(現青森県八戸市)出身の騎手・前田長吉(1923~46年)の生誕100年、長吉が20歳3カ月の史上最年少でダービーを制覇して80年を迎えた。牝馬クリフジに騎乗し今も破られていない偉業を達成するも、戦後シベリア抑留中に23歳の若さで亡くなった長吉。二つの節目を迎えて関係者は英雄の記憶を後世に語り継ぐ決意を新たにしている。

 長吉は39年に騎手を目指して上京。数々の大レースを制した尾形藤吉調教師に弟子入りし、42年に騎手デビュー。この時の長吉は身長146.6センチ、体重41キロで騎手としては小柄だった。翌43年にクリフジに騎乗しダービーを制覇。オークスと菊花賞も勝利し、クラシック競走の変則三冠を達成した。

 「自分を見失わない冷静さや謙虚さなど、騎手にとって大切なものを持っていた」「馬と瞬時に通じ合う馬乗りとして天性の才能があった」。2019年に著書「増補改訂版 消えた天才騎手 最年少ダービージョッキー・前田長吉の奇跡」(ガイドワークス)を出版した作家・島田明宏さん(58)はこう語る。

 島田さんによると、尾形調教師は自身の著作「競馬ひとすじ」の中で長吉を「馬にさからわずに柔らかく乗り(中略)自然に飛んでゆくようだった」「頭もよく、まったく私の指示どおりに競馬をするのでおどろいた。天才騎手といえるほどの少年」と評価している。

 長吉が騎手として活躍したのは1942~44年。通算成績は124戦42勝で、勝率は3割を超えている。勝率2割で一流とされており、長吉の非凡な才能がうかがえる。

 2015年に長吉に関する展示を開催した東京都のJRA競馬博物館競馬博物館課課長の秋永和彦さん(46)によると長吉は、1943年のダービーでレース前に尾形調教師からスタートに気をつけるように教わっていたが、致命的とも言える出遅れをしてしまったという。それでも冷静な騎乗で圧勝した。

 後に長吉が競馬雑誌に寄せた手記には、教えを守れなかった後悔や反省の言葉が書かれている。秋永さんは「勝った後であればいいことを書くと思うが、自分は一人前ではなくまだまだ上を目指せるという思いがあったのでは」と話す。

 長吉は44年に旧満州(中国東北部)へ出征し、シベリア抑留中の46年に死去。2006年にDNA鑑定で身元が判明した遺骨が八戸市に戻った。遺骨を受け取った長吉の兄の孫の前田貞直さん(72)=同市在住=は「ずっしりと重かった。しっかり供養しないといけないと感じた」と振り返る。

 貞直さんが保管している競馬用の長靴やむちなどの遺品や親族の証言により、伝説の騎手とされてきた長吉の実像が少しずつ明らかになっている。島田さんは「八戸の人は郷土にこんなヒーローがいたんだ-と誇りに思ってほしい。節目の年は歴史に目が向けられる良い機会。自分のできる仕事をして発信したい」と話した。

▼長吉、いつも馬とともに 八戸の暮らし 兄の孫語る

 前田長吉の八戸での暮らしは常に馬とともにあった。前田貞直さんによれば、いつも馬に乗って放牧に出たり、餌やりをしていた。えんぶりの笛を吹きながら馬の世話をしていた-という話も残されている。

 貞直さんが保管する遺品の中には、長吉の祖父・菊松や父・長松が品評会で優秀な馬を育てたとして授与された数多くの表彰状がある。上京前の1938年には地方競馬騎手講習会を受けて修了証を受け取っており、長吉にとって競馬は身近な存在で、自然と興味を持つようになったと思われる。

 長吉が騎手を目指して上京することに対して家族は反対したが、長吉は家出同然で上京したという。貞直さんは「レベルの高い東京の競馬への憧れが人一倍強かったのでは」と話す。

 現在、長吉の遺骨は八戸市是川の共同墓地に納められている。貞直さんは2016年、前田家の墓の近くに長吉がダービーを制した時の写真をあしらった慰霊碑を建て、たびたび花を供えに行っている。

 多くの人々によって長吉の実像が明らかになっていることについて、「うれしくてありがたい。長吉も喜んでくれる」と話す貞直さん。「長吉は自分にとって特別な存在。できる範囲で動ける限り伝えていきたい」と語った。

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まえだ・ちょうきち 1923年、是川村(現八戸市)で農業の8人兄弟の7番目として生まれる。39年に上京し、42年に騎手デビュー。翌43年に牝馬クリフジに騎乗しダービーを制覇した。44年に旧満州(中国東北部)へ出征し、シベリア抑留中の46年に栄養失調で死去。2000年、政府の派遣団が遺骨を収集し、06年にDNA鑑定で身元が判明し、遺骨が八戸市に戻った>

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