「この場所がなければ…」 長崎駅前高架広場が歴史に幕 夫婦の出会いや路上ライブ 市民の人生と半世紀

大規模工事が進むJR長崎駅周辺。1969年に建設された日本初の高架広場は1日から通行禁止となり、来年8月をめどに撤去される=長崎市尾上町

 再開発が進むJR長崎駅(長崎県長崎市尾上町)の東口側にある高架広場。1巡目長崎国体が開かれた1969(昭和44)年に「日本初」として建設された。それから半世紀以上、無数の人が行き交うこの場所では、いくつもの人生模様が織りなされた。長崎市民にとってなじみ深い広場は、駅周辺工事に伴い、1日から通行ができなくなり、来年8月をめどに撤去される。

■「どこから?」
 
 1973年7月、ある夜のことだった。高架広場につながる歩道橋。高校の同窓会を終えた男性3人組が階段を下りてくる。同じタイミングで上り始めたのは、職場仲間の女性4人組。擦れ違いざまに男性の1人が声をかけた。
 「どこから来たの?」
 男性は県外からの観光客だと思っていたという。
 「長崎よ」
 そう返答した女性たちと短く会話し、男性は浦上にある行きつけのスナックに誘った。「時間つぶしにちょうどいい」と女性陣。ナンパは成功した。
 店内に入ると、その男性は、一番年下だった20歳の女性を隣に座らせた。そこで意気投合。翌日、4人組が予約した乗車券を取りに行くと聞いていた男性は、昨夜の女性に会うため、再び駅へ向かった。
 「あの時、歩道橋を歩くのが2秒でも違っていたら出会うことはなかった。奇跡です」。50年前の記憶を鮮明に語るのは、同市ダイヤランド4丁目に暮らす後田正俊さん(73)、悦子さん(69)夫婦。出会いの後、重ねたデートの待ち合わせも高架広場だった。
 結婚後、子どもを2人授かった。5人の孫はかわいくて仕方がない。「高架広場は私たちの原点。あの場所がなければ子どもにも孫にも出会えなかったのだから」。今は「幸せ」。そう口をそろえた。

■世界変わった
 
 2000年5月5日の夕方。17歳の誕生日を数日後に控えた高校2年の少年は、それまでの人生で一番の足の震えを感じていた。
 当時、音楽グループの「ゆず」や「19(ジューク)」などのヒットにより、路上ライブがブームだった。その年のお年玉で購入した2万円弱のギターを手にした少年は、先輩に背中を押され、初めて人前で歌うことに。立ち止まる人は誰もいない。でも、少しだけ、世界が変わった気がした。翌日も同じ場所に立ち、それから毎週末通った。
 路上の回数は次第に減り、ライブハウスが中心になった。サラリーマンも経験し、現在は音楽を軸にした生活を送っている。シンガー・ソングライター「いずけん」として県内外で活動する同市若竹町の泉憲吾さん(40)は「あの時、広場で歌ってなかったら人生は違っていた。生きていること以外、こんなに続けていることないし」と笑った。
 高架広場の撤去を知り、いても立ってもいられず、5月21日の夕方、最初に歌った日と同じように道路側の場所にいた。車やバス、電車の走る音は相変わらず大きい。約1時間、オリジナル曲を熱唱した。
 新型コロナの影響で縮小していたライブ活動は復活しつつある。「人に会いたい、街に会いたい。だから音楽を続けていきたい」。謳歌(おうか)、そんな言葉が似合う顔だった。

■「ありがとう」
 
5月31日。午後6時を過ぎると、スマートフォンのカメラで「最後の風景」を収める姿があちらこちらに広がった。「長い間ありがとう」-。誰が書いたのだろうか。広場の端にあるベンチの脇に、メッセージボードが置かれていた。
同市によると、撤去する高架広場の代わりに歩道橋が25年に設置される。

完成間近の高架広場。当時の長崎駅は三角屋根だった=1969年5月30日撮影
高架広場の撤去を知り、最初に路上ライブした日と同じ場所に立って歌う「いずけん」=5月21日(本人提供)

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