雲仙・普賢岳大火砕流から32年 癒えぬ悲しみ胸に各地で追悼

大火砕流の発生時刻に合わせて「慰霊の鐘」が響く中、平成新山(奥)に向かって黙とうする遺族ら=3日午後4時8分、島原市の北上木場農業研修所跡

 43人の死者・行方不明者を出した雲仙・普賢岳の大火砕流惨事から32年を迎えた3日、島原市各地で追悼行事が営まれた。「何年たっても、忘れられない」「あなたに、会いたい」「おやじと酒飲みたかった」。家族や友人を亡くした人たちは癒えぬ悲しみを胸に、犠牲者を悼んだ。地域住民たちは噴火災害の記憶や教訓の継承と防災のまちづくりを誓った。
 消防団員の詰め所だった普賢岳麓の北上木場農業研修所跡(北上木場町)では、大火砕流発災時刻の午後4時8分、犠牲になった団員、大町安男さん=当時(37)=の三男真樹さん(35)の慰霊の鐘に合わせて参列者が黙とうした。
 犠牲になった団員、山下日出雄さん=当時(37)=の次男優樹さん(44)は「曲がったことが大嫌いなおやじだった。よく叱られたが、誕生日や海釣りなど家族のイベントは大切にしていた。生きていたら…。2人とも無言で杯を交わしてたかな」。亡き父に思いをはせた。
 噴火災害で家を失った人々が移転した仁田団地第一公園の追悼碑(仁田町)には朝から市民や警察関係者らが訪れた。大町安男さんの妻、寿美さん(66)は花を手向けて「何年たとうが、気持ちは同じ」と悲しみを吐露した。犠牲になった団員、井上康弘さん=当時(38)=の長男康一さん(36)は妻と小学生の子ども3人と参列し「親となって(子の成長を見ずに亡くなった)父の無念が分かる。災害の教訓を子どもたちに伝えたい」。
 普賢岳噴火災害の対応に奔走した鐘ケ江管一元島原市長(92)は「仏壇の前で犠牲者の冥福を祈るのが日課。噴火災害を知らない世代が増えてきた。6.3の記憶を風化させてはならない」と警鐘を鳴らした。
 全校生徒で折った千羽鶴をささげた島原中央高3年の生徒会長、石田彩奈さん(17)は「災害はいつ起きるか分からない。備えることが大切」と語った。
 12人が犠牲となった市消防団は、消防殉職者慰霊碑前(平成町)に献花台を設置。遺族や団員、元団員らが訪れて追悼した。第14分団の園田浩之副分団長(38)は「当時は小学1年生だった。『ドン』と音がして自宅は大きく揺れた。その日の夕方は体育館に避難。その後2年間、仮設住宅で暮らした。その経験を生かし地域防災の役に立ちたい」と振り返りながらこれからを見据えた。

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