雲仙・普賢岳大火砕流 巨大な熱風から生還 佐藤さん、32年経て当時を語る

眉山中腹の放送局中継所に着いたタクシー(右)。佐藤さんが運転席に座る(佐藤さん提供)
大火砕流発生時の様子を語る佐藤さん=島原市平成町、雲仙岳災害記念館

 雲仙・普賢岳の大火砕流からきょうで32年―。
 島原市南崩山町の元タクシー運転手、佐藤正行さん(70)は、消防団員や報道関係者ら43人が犠牲となった1991年6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流で同僚を亡くした。濃い灰色の巨大な熱風は、普賢岳を間近に臨む取材拠点「定点」にいた同僚より標高が高い場所にいた佐藤さんのタクシーも巻き込んだ。佐藤さんは奇跡的に生還した。「生き延びたのも運命。あの煙の中で何が起きたのかを伝えたい」。32年を経て重い口を開いた。

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 佐藤さんは当時38歳。小嵐タクシー(同市)の運転手だった。亡くなった同僚は、当時29歳だった立光重蔵(たちこうしげぞう)さん。立光さんは人懐っこく、車好き。毎日のように佐藤さん宅に寄っては話をし、佐藤さんは弟のようにかわいがっていたという。
 6月3日。佐藤さんのタクシーは放送局の取材陣を乗せ、定点(標高約200メートル)より山手の現場に向かった。定点を午後3時50分ごろ通過した。
 定点には大勢の報道陣がおり、連日のチャーター疲れのためか、立光さんは駐車したタクシーの運転席で寝ているのが見えた。
 定点から眉山方面に車で5分ほど上った空き地に停車した。別のタクシーや軽トラックなどに分乗し、現場には計10人がいた。佐藤さんはすぐ戻れるよう、上ってきた坂を向いて駐車し、運転席に座っていた。午後3時59分ごろ。これまでに経験したことのない大きな火砕流が発生した。普賢岳の正面にいる立光さんから「わあ、大きいの来たぞ」と無線が入った。坂の下から吹き上がってきた。
 「煙みたいに見えるあの中には、木とか石とかいろんな物が入っている。フロントガラスにバリバリバリっと当たるものだから、よく見えていた。『これで俺も最期かなって、なんやこんな終わり方か、人生って』と思った」。
 通り過ぎて、収まった。
 午後4時8分ごろ。さらに大きな火砕流が襲ってきた。立光さんからの無線は「わあ、おっきいの来た。俺もう駄目。そっちは」という言葉を最後に途切れた。ゴーッ、バリバリという倒木とみられる大きな音とともに、濃い灰色の塊が猛烈に近づいてくるのが見えた。佐藤さんは「俺も駄目」と言って無線を置いた。ハンドルを握り締め、手を突っ張って体を固定した。死を覚悟した。
 火砕流に伴う噴石や木の枝などがガンガンとタクシーのフロントガラスに当たり、はね上がっていった。島原市南崩山町の元タクシー運転手、佐藤正行さんは冷静に、よく見えていた。2、3分続いた。「ガラスが割れたら終わりだな」。ひたすら通り過ぎるのを待った。しばらくすると、不思議なくらい静かになった。
 どのくらい時間がたっただろうか。外に出てみると、辺りは硫黄みたいな臭いに、周りの木が焼け焦げた臭いが合わさって、むっとした。客を安全な場所に連れていこうと、来た道を下ろうとした。「木がむちゃくちゃ倒れている。木をのけては下り、のけては下りした。(フロントガラスに積もった)灰を手でのけながら」。大きな倒木が道をふさいでいたため断念した。
 運転する視界は「ちょうど大雪が降るときのように、まったく見えない」ような状態だった。倒木にふさがれた道路は左右で景色が違った。「(火砕流が通った)水無川側は全部、樹木の葉っぱがなく丸裸で倒れている。反対側は青々とした緑の木のまま立っている。(道を挟んで)数メートルの差が分けていた。まるで定規で引いたようだった。極端に違う」。火砕流の熱風が通った境界線を目にした。
 定点まで、あと一つ二つカーブを曲がればというところだった。取材陣を含めた10人は眉山の中腹にあった放送局の中継所で一晩を過ごし、翌日、レスキューヘリに救助された。
 佐藤さんらが救助された日、弟のように思っていた同僚、立光重蔵さんの遺体は、耐熱装備をした自衛隊員によって発見された。遺体はハンドルを握り無線を持った状態で見つかったと聞いた。
 救助された直後、取材記者に「火砕流に襲われて逃げたんですか」と聞かれた。「逃げられない」と答えた。
 佐藤さんは火砕流について当時の認識をこう振り返る。「時速100キロくらいで下りてくることは知っていた。ただ灰混じりの煙だけだと思っていた」。定点よりさらに前へ近づこうとする報道陣もおり、佐藤さんは「危ない」と注意を促すと、「近くじゃないと良い“絵”が撮れないから」と返されたこともあったという。
 雲仙岳災害記念館(同市)によると、午後4時8分の大火砕流は溶岩ドームから約3.2キロ離れた水無川沿いで停止したものの、火山灰や高温の火山ガスからなる熱風(火砕サージ)がふもとを襲った。
 同館の長井大輔調査研究室長は「火砕サージの内部を物語る佐藤さんの証言は貴重」と認識を示す。「遮るものがない定点と違い、溶岩ドームとの間に岩上山があったため直撃を免れたのだろう」と推測した。
 佐藤さんは孫4人に恵まれた。佐藤さんは「地元住民も含め、当時は火山について無知だった。孫たちにはしっかり知識を蓄え、自分の命に責任を持つ大人になってほしい」と願う。


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