雲仙・普賢岳大火砕流32年 犠牲者しのび「いのりの灯」

約1100本のろうそくをともした追悼行事「いのりの灯」。親子連れらが鎮魂の祈りをささげた。後方は平成新山=3日午後8時2分、島原市の雲仙岳災害記念館

 雲仙・普賢岳噴火災害で消防団員や住民、警察官、報道関係者ら43人が犠牲になった1991年6月の大火砕流惨事から3日で32年を迎えた。遺族や市民らが島原市内の献花所で祈りをささげ、災害の記憶の継承と防災への誓いを新たにした。
 度重なる火砕流、土石流で被害を受けた安中地区の住民が集団移転した仁田町の仁田団地第一公園では、犠牲者名が刻まれた追悼碑前に市が献花所を設置。市や警察の関係者らが早朝から花を手向けた。当時、消防団員だった古川隆三郎市長(66)は「崩落の危険のある溶岩ドームが残っており、災害はまだ終わっていない。(工事など)ハード、(避難訓練など)ソフト両面を合わせて安心安全のまちづくりを進めていきたい」と力を込めた。
 北上木場町の雲仙岳災害記念碑前では、市仏教会が三十三回忌追悼法要を開催。県内外から遺族約70人が参列した。
 大火砕流が発生した午後4時8分、市内全域にサイレンが鳴り響き、市民らが黙とう。消防団員の詰め所だった北上木場農業研修所跡では慰霊の鐘が鳴らされ、普賢岳の噴火活動で形成された溶岩ドーム「平成新山」に向かい、遺族らが静かに目を閉じた。報道陣の撮影拠点だった「定点」でも遺族らが手を合わせた。
 平成町の雲仙岳災害記念館では追悼行事「いのりの灯(ともしび)」があり、島原半島の小中学生が絵やメッセージをかいたろうそく約1100本がともされ、訪れた親子連れらが犠牲者をしのんだ。


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