雲仙・普賢岳大火砕流32年 現役唯一“当時”を経験 消防団長・金子さん「教訓を後世に」

「慰霊碑を地域防災の礎にしてほしい」と語る金子さん=島原市、消防殉職者慰霊碑前

 雲仙・普賢岳大火砕流で島原市消防団の犠牲者は12人に上った。今年4月、団長に就任した金子宗弘さん(62)は団員として当時を経験した唯一の現役で、団が1999年に建立した「消防殉職者慰霊碑」(同市平成町)に石工として携わった。先輩団員を亡くしたあの日から32年。石碑が世代を超えて地域防災の礎となることを祈った。
 金子さんは、市内の霊丘地区にある石材店の4代目。当時30歳だった。消防団本部勤務ではなかったため、被害が集中した安中地区で警戒中に大火砕流に巻き込まれた谷口武副団長=当時(41)=ら12人と接点は多くなかったが、谷口副団長は責任感が強くリーダーシップを発揮していたという。
 慰霊碑を建立する際、本部班長を務めていた。碑文は大火砕流当時の知事、高田勇さん(故人)の筆。金子さんは「地域が安全であるように、二度と殉職者が出ないように」と願いながら、のみで文字を彫り込んだ。
 3日、慰霊碑前で献花した金子団長は「地区が違えば私が犠牲になっていたかもしれない。亡くなった勇敢な先輩方の姿や、災害の教訓を風化させないよう、後世に伝えないといけない」と世代を超えて継承していくことを誓った。
 消防団員としての使命感は、大火砕流災害を経験していない世代にも受け継がれている。大火砕流の約6カ月後に生まれた安中地区出身の下田真路さん(31)は4月、金子団長から辞令を受けた。
 噴火災害について、下田さんの記憶は仮設住宅で暮らしたことがわずかに残る程度しかない。下田さんは2011年の東日本大震災で、捜索活動に取り組む自衛隊員の姿を報道で知り「困っている人を直接、自分の手で助けたい」と、大学を中退して自衛官になった。8年間、千葉県などで勤務し、台風災害の支援活動に従事した。現在は、団員だった父が経営していた地元の事業所で働いている。
 下田さんは「消防団員のなり手不足は今も深刻だが、チームで活動すれば大きな課題にも取り組める。亡くなった先輩団員のことを忘れず、災害時にはみんなで協力して自分も地域の人も守っていきたい」と話した。


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