その自己肯定感は間違ってるかも?“高身長女子”のわたしが、ヒールを履けるようになった理由

私は背の高い女性だ。

身長が170cmあり、一度街へ出れば、街中や電車で視線を感じたり、「あの人デカい」という声が聞こえてきたりすることも少なくない。

初対面の会話は「身長高いですね」に始まり、過去にはどんなスポーツや部活をやっていたのかを聞かれるのがお決まりだ。

SNSで「高身長女子あるある」を覗いてみると、やはりコメント欄は、高身長女性たちの嘆きで溢れかえっている。

この苦痛の背景にあるのは、社会に蔓延る「女性らしさ」だ。今日も社会では「小さくて可愛い」という“評価基準”や「女性は身長が低い」という前提が幅を利かせている。

その「女性らしさ」からはみ出している私には、女性である前に「背が高い人」というラベルが貼られてしまうのだ。

“普通の女性”になりたかった私は、少しでも身長を低く見せたいという思いから、すっかり猫背が身についてしまった。おしゃれにも制限をかけ、履くのもぺったんこの靴ばかり。

しかし、今日の私は自信を持って、履きたいときに履きたい靴を履いている。

大好きなヒールやブーツも、もう我慢しない。「高身長な自分、いいね!」と胸を張れている。

読者の皆さんの中にも、身長に限らず、何らかの形で「らしさ」からこぼれ落ちることへの苦しみを抱えている人がいるかもしれない。

そこで今回は、社会の「らしさ」や「普通」からはみ出す高身長女子の私が、自分を愛せるようになるまでの「自己受容」の軌跡を書いてみようと思う。

外からの評価のみで成り立つ自己肯定感はもろい

自分の身長がコンプレックスだった私に訪れた最初の転機は、アメリカへの留学だ。

アメリカでは民族的・人種的多様性もあり、高身長の女性は珍しくない。

更に文化的に背の高い女性は「イケてる」という風潮もあり、身長を“盛る”ため高いヒールやブーツを履く女性も多い。

「背が高いね」と言われることもめったになかったので、初めて「高身長女子」であることを気にせずに生きることができた。

しかし、胸を張って歩けていたのも束の間...。日本に帰国後、アメリカ滞在時の感覚で靴を履いていると、久しぶりに「デカいね」をたくさん食らってしまった。

ああそうだった。忘れてたけど私ってデカいんだっけ…。

私の自己肯定感はほろほろと崩れ、アメリカで履いていた厚底のサンダルやブーツとも距離をおくようになった。

私が自分に自信を持った気になっていたのは、背が高い女性はイケてるというアメリカの「らしさ」に偶然フィットしていたから。

社会や他者からの評価ありきで成り立つ自己肯定感は、こんなにもろいのかと、この時に痛感した。

同じようで全然違う。ふたつの自己肯定感

そう落ち込んでいた時に転機となったのは、Netflixオリジナル番組『クィア・アイ』。ファッションや美容など、それぞれ得意分野を持つプロフェッショナルの5人組「ファブ5」が、悩みを抱える人たちの内面と外見を素敵に大改造するという内容だ。

日本シリーズの第2話は、日本でゲイとして生きることへの難しさに悩むKanさんのエピソードだ。「カナダやイギリスで暮らしていた頃は自分らしさが開花していたのに、日本に帰国してからは、それが難しく感じる」と語るKanさんに、メンバーのカラモが掛けた言葉を聞いて私はハッとした。

「僕たちが持つ個性は、僕たちみんなに与えられた贈り物。この贈り物を受け取ることができれば、君は世界中どこにいても幸せになれる」

これだ…!私もこの揺るがない自己肯定感を手に入れたい!私も自分の身長という個性を、贈り物として受け取ることができたら、アメリカにいようと日本にいようと、誰といても幸せになれるはず!

…でもどこから始めたらいい?

調べてみると、自己肯定感には、絶対的自己肯定感と社会的自己肯定感の2種類があると言われているそうだ。

絶対的自己肯定感とは、いわば土台。自分が存在している事象自体をまるごと肯定する、存在レベルの自己肯定感のこと。

一方の社会的自己肯定感とは、仕事の成果や成功体験など、他者からの評価によって生まれる自己肯定感のこと。

どちらも必要なものだが、カラモが語った言葉はまさに絶対的自己肯定感の考え方。

一方の私は社会的自己肯定感に偏っており、土台がグラグラだったのだ。自分を肯定し、受け入れるための旅は、この事実と向き合ったことで本格的に始まった。

自己受容のために始めた「マイルール」

大前提として、自己受容は時間がかかるプロセスだ。残念ながら「これをやったら簡単に自己受容に成功した」というような飛び道具はないが、力添えをしてくれたアクションをふたつ紹介したい。

1. 嘘でもいいから、自分だけは自分に「いいね!」をしてあげる

他人から繰り返し同じ言葉を浴びていると、その言葉が事実のように感じはじめてしまう。

そこでまずは、その負のサイクルを断ち切るために、自分で自分に「いいね!」をしてあげてほしい。他人からのジャッジはコントロールできないけれど、自分ならコントロールできるのだ。

私は一人で近所を散歩する時にヒールのある靴を履くことから始めて、鏡の前でグッドサイン付きで「いいね!」をしてあげていた。心から「いいね!」と思えなくてもいい。これを始めると、脳みそも騙されて本当にいいね!と思えるようになるのだ(あと単純に気分もアガる)。

2. 「NO」を示すことは、然るべき正当防衛

この社会で生きる以上、他人の目やジャッジからは逃れられない。であれば、ジャッジが効かない私になればいい。

少し楽になったと感じたのは、「私を無駄に傷つけてくる人は、私の心に踏み入らせてあげないよ」と思えたときだ。

ドライな考え方と感じる人もいるかもしれないし、特に周囲の全員に優しくしようと努めてしまう人は罪悪感を感じるかもしれない。

しかし、これは攻撃やわがままではなく、然るべき正当防衛。言葉には出せなくても「それ、やめてください」とドライな態度や表情で示せるようになると、自然と周囲の態度にも「リスペクト」が加わっていくのを感じた。

以前は、強い人は敬遠されると思っていたが、「自分の気持ちを理解している」という強かさは、返って人を魅了するのかもしれない。勇気を出してNOサインを出してよかったと思う。

自己受容は、七転び八起きの一人旅

冒頭に「今は自分に胸を張れる」と書いたけれど、実は私もまだ旅の途中。

心の調子が悪いときは自己肯定感が下がるし、些細な言葉に傷つくことも未だにある。きっとこれからも、自信を取り戻しては失うだろうけど、そんなアップダウンを繰り返しながら、しなやかな自己肯定感を育んでいきたい。歩んできた旅路を振り返り、今はそう思えるようになったのだ。

高身長で悩む女性たちをはじめ、社会の「らしさ」に当てはまらない自分の存在について悩む人たち。

自己受容は一人旅。焦らずにいきましょう。

険しく心細い旅の中で、私の旅の軌跡があなたの旅路を照らす街灯の一つくらいになれたなら、とても嬉しい。

(ウェルなわたし/ 黒崎 侑美)

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