世界で続く戦争「悔しくて」 ウクライナの戦火、沖縄戦の苦難に重ね 終結から78年、23日慰霊の日

「沖縄戦の悲劇は二度と繰り返さないで」。戦後78年の歩みを語る淀川トシ子さん=尼崎市長洲中通3

 太平洋戦争末期、国内唯一の地上戦となり、県民の4人に1人が亡くなった沖縄戦の終結から、23日で78年を迎える。幼少期を沖縄で過ごした淀川トシ子さん(97)=兵庫県尼崎市=はふるさとの友を失い、自らも空襲で家を焼かれた。今、海の向こうから伝わる戦争のニュースに触れるたび、沖縄の過去が重なってつらくなる。「一日も早くこの世界から戦争をなくして」。願いはいつ、かなう。(久保田麻依子)

 淀川さんは1926(大正15)年、大阪市生まれ。1歳から12歳までを両親の実家がある沖縄本島最北端の国頭村で過ごした。

 穏やかな毎日だったが、嫌な記憶もある。学校で標準語を使うよう指導され、沖縄言葉を使うと「方言札」を渡された。相互監視のためか、沖縄言葉を使っている別の子を見つけたら、その札を押し付けるルールだった。

 中学入学に合わせて尼崎に移り、やがて戦争が始まる。連日戦果が報じられ、勝利を疑わなかった。ところが、45年3月、米軍が沖縄に上陸。地上戦が激化すると、「同級生が逃げる途中で撃ち殺された」といった話が人づてに耳に入ってくるように。6月23日、沖縄戦は事実上、終結した。

 同じころ、淀川さんの家も空襲の焼夷弾で焼けた。家族は無事だったものの、生活を立て直すのに必死の日々。住民を含む24万人超が犠牲になった沖縄の惨状を知ったのは、少し後になってからだ。方言を使った住民が日本兵にスパイと疑われたことも聞いた。

 傷病兵を看護し、多くが犠牲となった「ひめゆり学徒隊」の女学生たちとは同年齢。淀川さんは「沖縄に残っていたら、私も生きていなかったかもしれない。今でも申し訳ない気持ちで苦しい」と声を落とす。

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 ようやく戦争が終わっても、暮らしには暗い影が残った。両親は沖縄出身者への差別を恐れてか、故郷で好んで食べられる豚肉を人目を避けるようにして買いに行っていた。旧姓の「山城(やまぐすく)」も、本土になじみやすい「やましろ」で通した。

 うれしかったのは沖縄の本土復帰から3年後の75年、現地で国際海洋博覧会が開かれたとき。淀川さんは戦後初めて懐かしい島の土を踏んだ。「すっかり町並みは変わっていたけれど、誇りあるふるさとに違いなかった」と目を細める。

 日本にある米軍専用施設の約7割が集中する沖縄。ロシアによるウクライナ侵攻は収束が見えず、世界で軍事的な緊張が高まるたび不安が募る。「何かあれば(基地が集中する)沖縄が真っ先に標的にされるのでは」。今年5月には、北朝鮮による「衛星」発射で沖縄県に全国瞬時警報システム(Jアラート)が発令。心配になり、すぐさま親戚に連絡を取った。

 心の慰めは85歳を過ぎて始めた趣味のハーモニカ。「芭蕉布」「涙そうそう」などふるさとを思うレパートリーも増えた。「吹くのは阪神タイガースが勝ったとか、楽しい時間のときだけだけどね」

 巡り来る「慰霊の日」。「戦争の悲惨さは体験した人しか分からへん、ということはないはず。なのに、世界で戦争が続いているのが悔しくて」。今年もテレビで沖縄の追悼式典を見ながら黙とうをささげる。

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