島原・千本木火砕流 きょう30年 「うちも焼けた…」 猛威に立ち尽くしたあの日 元住民が証言

大火砕流後の千本木地区を空撮した写真。手前の白い筋が火山灰で埋まった中尾川で、右奥から左にかけカーブしているのが県道愛野島原線。石本さんの自宅は、中尾川と県道が交わる「千本木橋」近くにあった=1993年6月24日、島原市上空(同市提供)

 30年前の1993年6月23日から24日にかけて、雲仙・普賢岳噴火災害で、長崎県島原市千本木地区が大火砕流に襲われた。住民1人が死亡、家屋など187棟が炎上した。元住民の石本靖さん(89)=同市宇土町在住=は、他の住民たちと高台からそれぞれの自宅を見詰めていた。「うちも焼けた。あっちも…」。被災時の状況を証言した。
 千本木地区は普賢岳の北東部に広がる盆地で製茶が盛んな地域だった。垂木(たるき)台地を挟み、中尾川の上流から下流にかけて南千本木町、北千本木町の集落が広がっていた。

 石本さんは茶農家の次男として生まれた。茶業とともに、野生動物のはく製を作る「靖綾堂(せいりょうどう)」を県道愛野島原線の千本木橋にほど近い北千本木町で営んでいた。
 大火砕流が起きた93年6月ごろ、垂木台地周辺の谷は溶岩や火山灰で埋まり、火砕流は滑り台を滑るように台地の脇から中尾川の源流部に沿って流れ込むようになっていた。また、大雨時には土石流も中尾川流域の家屋を破壊した。住民は、地区外の仮設住宅などに避難していた。

大火砕流を振り返る石本さん。指し示しているのは、普賢岳からの火砕流が乗り越えてきた垂木台地の谷=島原市上折橋町、しまばら火張山花公園

 石本さんは家族4人で同市三会地区の仮設住宅に身を寄せていた。仮設住宅は2世帯が一つ屋根の下に暮らすプレハブの長屋のような造り。土石流や火砕流が起きるたび、自宅から家財道具を運び出した住民の話で持ち切りになっていた。
 千本木地区への火砕流は6月23、24日に複数回、襲来した。23日朝、自宅を見に行こうと警戒区域内の南千本木町へ向かった住民1人が亡くなった。
 石本さんは24日昼ごろ、「焼かれてしまう前に仏壇やたんすを持ち帰りたい」と、仮設住宅の住民と連れだって立ち入り規制ゲートのない山道から車で回り込み、自宅を目指した。
 しかし、自宅は到着の数時間前の同日早朝に起きた大火砕流で燃えていた。雲仙岳災害記念館によると、同日早朝は溶岩など大火砕流の本体が初めて千本木橋を超す、両日で最大規模のものだったという。
 千本木地区を見渡せる高台には、住民ら約20人が集まり「うちも焼けた」とつぶやき、立ち尽くしていた。石本さんは「哀れだ」と思った。元来た道を帰っていった。
 石本さんは当時の状況を「人が荷物を持って来たと聞いたら、『よし自分も』と思うのが人情。しかし安易だった。命を失うことになるかもしれないと、考えないといけなかった」と振り返る。

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