木村守男・元青森県知事が死去 85歳 3期途中8年余り「福祉日本一」推進

木村守男氏

 1995年から2003年の3期途中まで8年余りにわたり青森県知事を務めた木村守男(きむら・もりお)氏が25日午前6時53分、老衰のため藤崎町内の病院で死去した。85歳。同町出身。知事在任中は「福祉日本一」などの施策を進めた。衆院議員通算4期。葬儀は密葬で執り行う。喪主は妻せつゑさん。後日「お別れの会」を開く。次男は自民党の木村次郎衆院議員。

 1938(昭和13)年、衆院議員を3期務めた文男氏の三男として生まれた。自民党の実力者だった河野一郎氏の書生となり、29歳で県議に初当選した。

 国政初挑戦は1969年12月。当時中選挙区制だった青森県衆院2区に無所属で立候補し、一大勢力を擁した田沢吉郎(自民)、津川武一(共産)、竹内黎一(自民)の3氏の前に敗れた。77年の参院選、79年の衆院選には、河野氏の長男・洋平氏が代表の新自由クラブから出馬したが落選が続いた。

 国政初当選は80年の衆院選。竹内、田沢両氏に次いで、残り一つの当選枠に滑り込んだ。次の83年衆院選は次点に泣いたが、86年衆院選でトップの得票で返り咲いた。以来、3期連続当選を果たした。

 93年には自民党を離れ、「政治改革」を旗印に掲げた新生党の結成に参加した。

 95年、全国初の新進党(新生党などが合流)系知事誕生の期待を背負って知事選に出馬。5選を目指した現職の北村正哉氏を破った。「福祉日本一」「文化観光立県」などを打ち出した。原子力施策を巡って橋本龍太郎首相との会談が実現しないことを理由に、返還高レベル放射性廃棄物を積んだ輸送船の六ケ所村むつ小川原港への入港を拒否する場面もあった。

 2期目は知事選史上最多の42万票余を獲得。青森冬季アジア大会の経費膨張問題や県住宅供給公社14億円横領事件などの問題が相次いだが、2003年1月に3選を果たした。

 その後、公務に端を発した女性問題をきっかけに県議会が紛糾、同5月に辞職した。

 晩年は衆院議員となった長男の太郎氏(17年死去)や、後を継いだ次郎氏の活躍を静かに見守った。

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