「街は焼け果て、この世の地獄だった」 突如襲った激震…蔓延する疫痢で4歳の弟は死亡 福井地震75年目の記憶

長年集めた福井地震の資料を見て当時を振り返る伊与さん=6月20日、福井県福井市内
焼け野原となった福井地震翌日の福井県福井市街地。奥にある大和百貨店は激震で大きく傾いた。現在の浜町付近から東方面を撮影=1948年6月29日(原版所蔵・米国立公文書館、福井県立歴史博物館提供)

 「お母さん、みんなここで焼け死ぬんやね…」。一面焼け野原となった1945年7月の福井空襲からわずか3年、福井県福井市街地を再び猛火が襲った。6月28日午後4時13分に発生した福井地震。「日が暮れると、あちこちで火の手が上がっているのが見えた。始めはだるま屋百貨店の方。片町のマッチ工場も燃えていた」。自分たちを囲うように炎が回り、神明神社近くまで迫ってきた。福井市三の丸町(現在の大手2丁目)で被災した伊与博子さん(84)は地震の惨禍と復旧までの苦労を思い起こす。

 福井空襲では家が焼け、地震のときは9歳。順化小学校4年だった。学校から帰り、祖母と母が夕飯の準備をしている間、弟の信男ちゃん(4つ)、道男ちゃん(2つ)と自宅近くの砂利道で遊んでいたときだった。急にドンと地面が突き上がり、経験したことのない激しい揺れが襲った。弟たちを守らなきゃと、とっさに2人を抱え込んだ。立っていられず、ゴロゴロと転がり回った。

 揺れが収まったとき、傾いた自宅から祖母と母が駆け寄って来た。顔を見てほっとした。しかしその後も余震が何十回も続いた。周りの家はグシャッとつぶれ、自宅からござや毛布を引っ張り出し、近所中が路上生活になった。県職員の父は東京出張中。「どうしよう」と不安でたまらなかった。

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 一睡もできないまま、夜が明けた。水や食料を探しに出た街は焼け果て、地割れし、この世の地獄だった。⇒【写真】福井地震の翌日、焼け果てたまち

 数日後、崩れた家の廃材で作った掘っ立て小屋での暮らしが始まった。食べ物もない、服もノートも鉛筆も。汗をダラダラ流し、水をくみに何度も井戸を往復するのが私の仕事だった。

 割れた道からボコボコと水が出てきている場所もあった。梅雨で豪雨にも見舞われた最悪の環境。赤痢など感染症がまん延していた。「だるい」と信男ちゃんが起きてきたのは8月8日朝だった。前日まで元気だったのに、お菓子もいらない。かかりつけ医も「こんなおとなしい坊ちゃんじゃないのに。疫痢です、もう助からない」。数時間後、息を引き取った。父不在の中、小さな家で簡素な葬式を挙げた。

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 家の手伝いをしなくてもいいから、学校の再開はうれしかった。校舎は全焼。テント教室だった。梅雨でぐじゅぐじゅとした足元で、教科書もなくて班で回し読み。1週間に1回手元に来るだけだから、勉強は進まなかった。アメリカの飛行機が乾パンやせっけん、鉛筆、学用品の入った箱「ララ物資」を校庭に投下してくれた。6年生のときに校舎が完成し、ようやく生活が戻ってきた気がした。

 当時は福井空襲で痛めつけられて3年後。まだバラックの家もあって、鉄筋は少なく、燃えやすかった。幼いときは戦時中で空襲への備えは何度も練習してきたけど、地震の対策は習ったことがなかった。弟も友達も亡くし、担任の先生は大けがを負った。家も食べ物もない、苦しい暮らしを経験した。今の子どもたちに命の尊さを知ってもらいたくて、今は福井市内の小学生に毎年体験を語っている。本当に今は幸せな時代です。

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 1948年6月、復興の途上にあった福井県嶺北北部を襲った福井地震は、6月28日で発生から75年を迎える。体験者が減る中、当時を生き抜いた3人に語ってもらった。

当時の福井市の被害 死者900人以上、負傷者1万人に上り、全壊率80%の壊滅状態となった。死者1500人以上となった1945年7月の福井空襲から復興途上にあった市街地では、木造の簡易家屋も多く、火災が拡大。夕刻だったため、調理中の出火などが相次ぎ、再び焼け野原となった。現在の福井市森田地区(当時吉田郡)など空襲の被害がなかった郊外では、瓦屋根の重さで2階が1階を押しつぶすような倒壊が多発した。

福井地震75年目の記憶 体験者が語る

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